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アーカイブ:染谷先生投稿

2018/07/11 14:02 に Jun Inutsuka が投稿

第70回環流文明研究会は、予定通り、7月9日(土)午後1時から実践女子大学日野キャンパス本館1F映像演習室で行われました。

 

まず前回と同様、一般市民の将来意識について具体例を引き合いに論じました。出た意見は認識科学から見ても、一般の将来意識を引き出すのは非常に難しいというものでした。仮に30年先というような近未来であれ、日常生活に追われている市民が将来像を描くのは難しい。ではどうするか、が課題となります。

 

次いで星野氏から問題提起されました。(資料を紛失してしまったために断片的記述となりまし

た。申し訳ありません)。

 

産業革命当時から2以内に収めるためには400ppm以内に収めなければならないが、去年の段階ですでに420ppm。

 

地下水の枯渇

 

高カロリー農業

 

日本の農業は人間本位の農業

 

植物中心の農業が理想としてもそれで今の人口を維持できるのか

 

発展途上国の人々を救うのか、それともむしろ発展途上国の人々に救われのか

 

ITは人々を救うのか、それとも収奪するのか

 

植物系の6次産業の可能性

 

イメージで終わるのでなく実証的科学的研究を

 

「無限」を前提とした近代文明から「有限」を前提とした未来文明への転換(文責:染谷)

 

なお、8月の研究例会は夏休みとします。次回は9月24日(土)午後1時から実践女子大学本館1F映像演習室で行います。発表希望者は私宛にお知らせください(染谷)。

 

次回(第70回)の研究会例会は、明日(7月9日(土))午後1時から実践女子大学日野キャンパス本館1Fの映像実習室で行います。星野克美氏の発表と、これまで討議してきたところを再検討し、出版の予定を検討したいと考えております。

 

遅れましたが、第68回環流文明研究会は、予定通り、5月14日(土)1時から法政大学第9校舎の3階の研究室で行われましたこと、そして発表された内容を報告致します。

 

法政大学の鈴村裕輔(政治思想史)さんは「戦後の日本における報道機関と権力の関係-歴史的推移と今後の展開についての試論的考察」と題して概ね以下のような発表をなさいました。

 

まず「国境なき記者団」の「世界報道自由ランキング」によれば、現在日本は世界の国々のなかで72位で、かつての26位や11位と比較すると大幅にそのランキングを下げていることが紹介されました。福島原発事故の際の報道の不透明さ、特定秘密保護法、高市総務大臣の発言、NHKのクロ現、テレビ朝日の報道ステーション、沖縄2紙をめぐる百田尚樹氏の発言などが大きく作用した結果と思われます。

 

政治と報道の自由をめぐって政府、政治家の問題、報道機関の問題、国民の問題が挙げられました。これは権力の問題です。すなわち第一の権力(国民)、第二の権力(政府)、第三の権力(報道機関)のせめぎ合いをどう調整するか、という問題です。今回の発表は、第二の権力と第三の権力に絞り、特に戦後日本における政治権力の報道機関への干渉を挙げました。最近の高市総務大臣の「停波」発言が現政権のホンネであることは明らかで、要注意です。

 

「まとめ」として鈴村さんは、政治家の報道機関に対する干渉を控えねばならない、また、報道機関も政治家や当局の干渉を許すような報道や番組の制作を控えなければならない、というものでした。

 

私は、この最後の部分、すなわち政治家や当局に干渉を許すような報道や番組制作を控えなければならないという鈴村さんの「控え目な」お考えには同意できません。上記したようにこれらは権力の問題です。相互に戦わなければならない権力の問題です。そこでは「控える」というのは「負け」につながるのではないでしょうか。報道機関が一つの権力であるならば、常に政治権力を監視し、その暴走をチェックする必要があると思います。NHKのニュースをはじめ、解説などの番組の言葉使いを私は気にしています。あの「(政府は・・・・することに)なりました」という言葉で締める言葉使いです。こういう言葉使いに違和感を感じたのはインドネシアのニュースを聞いてそれと比較して得たものです。私はインドネシアも日本と同じ「なる」ことを重視する文化ですが、ニュースでは「なりました」という表現は使いません。

 

私がNHKの「なりました」に違和感を持つのは、この言葉が事象を「既成事実化」するからです。視聴者は、感覚的に、政府の決定が既成事実のように受け止めてしまうからです。(この言葉は心を落ち着かせる作用があるようで、日本人が好きな言葉です。それもあってかレストランのウェイターが客に向かって注文のハンバーグを差し出す時、「ハンバーグになります」というのでしょう。私はこの言葉使いにも違和感を感じていますが)。事実はまだ決定したわけではないのに。この言葉の「魔術」に注意しなければならないと思います。NHKは公共放送と何度も言われてきました。ここでいう「公共」とはどういう意味なのでしょうか。曖昧です。とくに「公」が政治権力も意味するからです。

 

かつてインドネシアには国営放送しかない時代がありました。この報道機関はもっぱら政府の宣伝機関でした。スハルトがどこでどんな演説をしたか、あるいは農業省の大臣が何を言ったか、のような番組が多く、娯楽番組は週末だけでした。視聴者はスハルトの番組になるとさっさとOFFにします。つまらないからです。

 

さすがにNHKは国営放送ではありません。しかしチラッ、チラッと国営放送のような番組も入っていることに気づかなければならないと思います。鈴村さんはかつて島桂次が政治家が免許制で成り立っている報道機関、とりわけ予算が国会の同意を必要とするNHKに対して「自分の思う通りになる都合のよいおもちゃ」と発言したと紹介しました。これではNHKが国営放送に他ならないことになります。私たちから視聴料を取って成り立っていることも忘れてはならないはずです。

 

ちょっと長くなりました。もし反論があれば、また研究会でお考えを披露されることを期待しています。

 

次に、神出さんが「ドイツの脱原発-文明の転換ケーススタディ」と題してメルケルの政治判断を紹介しました。

 

メルケルは福島の事故を見て、原発というものの危険性を思い知ったようです。「安全なエネルギー供給に関する倫理委員会」を設置し、その委員会が出した結論に従って脱原発の政策をとりました。この委員会は、自然科学アカデミー会長など理系の専門家も入っていますが、哲学者や教会関係者も入っていました。原子力関連の研究者は排除されました。

 

委員会は原子力エネルギーの終結と他のエネルギーへの切り替えに関する決定は、「すべて社会による価値決定(倫理性)に基づくものであって、技術的経済的観点よりも先行する」というものでした。

 

現代のみならず将来世代に対してももつ倫理性を提言したわけです。そのような倫理性重視から原発リスクは「未知」である故に「評価できない」という結論が出てきます。こうした決定は、日本の考え方と基本的に異なります。ここまで言い切れる人は日本にいるでしょうか。

 

最後に、「科学」とは何なのか、その限界を含め、次代の文明のあり方に関する問題を提起しました。

 

ドイツの徹底した倫理性重視の姿勢と科学への鋭い問題提起は、まだまだ科学信仰を持ち続けている日本にとって重大な問題を提起しています。この問題も当研究会でもさらに討論する必要があります。(文責:染谷、2016.5.19)

 

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5月14日(土)午後1時から行われる第68回研究例会は、法政大学九段校舎別館3階の「研究所会議室に変更となりました。所在地と地図は以下の通りです。

 

 

所在地

102-8160 東京都千代田区九段北3-2-3

 

地図

https://www.google.co.jp/maps/place/%E6%B3%95%E6%94%BF%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E4%B9%9D%E6%AE%B5%E6%A0%A1%E8%88%8E/@35.6929806,139.7412842,19.4z/data=!4m5!3m4!1s0x0:0x5cb8a090b64f21f2!8m2!3d35.6932497!4d139.7415919?hl=ja

 

ちょっと分かりにくいところですので、12時半にJR市ヶ谷駅改札口にお集まりください。鈴村さんに会場まで案内していただくことに致しました。

 

第68回環流文明研究会は、5月14日(土)午後1時から法政大学日本国際セミナー室で行われます。発表者は、鈴村裕輔氏と神出瑞穂氏です。

 

鈴村裕輔さんと神出瑞穂氏の発表タイトルと要旨は以下の通りです。

 

環流文明研究会20165月期研究会

 

戦後の日本における報道機関と権力の関係

――歴史的推移と今後の展開についての試論的考察

 

鈴村裕輔(法政大学)

 

要旨

 

今年2月に高市早苗総務大臣が、「行政が何度要請しても、全く改善しない放送局に何の対応もしないとは約束できない。将来にわたってあり得ないとは断言できない」と、放送局が政治的な公平性に欠ける放送を繰り返した場合の電波停止の可能性に言及し、4月には国境なき記者団が発表する「世界報道自由度ランキング」において2016年の日本の順位が2002年の調査開始以来最低の72位になるなど、現在、日本における報道の自由のあり方、あるいは報道機関と権力の関係が問題となる場面が増えている。確かに、明治政府による讒謗律(1875年)や新聞紙条例(1887年)の制定を例に挙げるまでもなく、戦前までの日本において言論の自由は制限されていた。しかし、憲法によって言論の自由が保障された戦後においても、「パフォーマンス首相」と称された中曽根康弘氏がNHKのニュース番組の内容を詳細に確認し、幹部を定期的に呼び出していたことが象徴的に示すように、権力者は絶えず報道機関の動向に注意を払い、直接的ないし間接的に報道機関を牽制しようとしている。そこで、今回の報告では戦後の日本における報道の自由のあり方を報道機関と権力者との関係を中心に考察するとともに、今後の展開を検討してみたい。

 

タイトル:「ドイツはなぜ脱原発を決断したか。-そのプロセスと考え方」

 要旨  :福島第一原発事故のあと、ドイツは脱原発に舵を切りました。収奪文明から環流文明への転換には、このような大きな決断が必要な事態がいくつか考えられます。このドイツ、メルケル首相の決断までの経緯はそのケーススタデイとして有効であると同時に、他の多くの問題にも応用可能と考える。

第67回環流文明研究会は、予定通り、4月14日(土)実践女子大学日野キャンパス本館で行われました。

末武透氏の発表は通信技術による広がる世界、教育、国境を越える組織犯罪、についてでした。詳細は本研究会のHPのなかの「公式文書」をご覧ください。

そこで発表された「地球未来白書」の説明を踏まえ、末武さん自身が考えた人類世界の未来予測は

・仮に2050年まで何とか食料制約、エネルギー制約などを何とか回避できるとしても・・・

・紛争などで長くともせいぜい20年程度でインフラやシステムが崩壊し、人口が激減する。

・これは、直接、人が大量に殺されるのではなく、医療システムや食料、エネルギーなどの供給システムが徐々に崩壊し、そのために、食料不足などで徐々に死亡率が上がっていくというシナリオ

・星野先生のデータが示すように、2050年以前にこの最悪シナリオが起きる可能性が高い。

・そのきっかけは、石油だけではなく、金融危機などでも起きうる。

・現在のシステムはあまりにも脆弱である。

 

というものでした。2050年頃までに現代文明は崩壊し、新たな文明で生きざるを得ない、ということのようです。

 

次いで、染谷は「なぜ貧困を論じるのか?」と題した発表を行いました。これは前々回に発表した「ジャワ心学に基づく清貧」に次ぐもので、中野孝次さんの『清貧の思想』を参考に、日本の清貧を論じたものです。

 

大量生産・大量消費のもとにする現代文明にブレーキを掛けるために清貧の思想が参考になるのではないか、という考えから論じました。

 

結論からいえば、中野さんが挙げている吉田兼好や良寛の思想は一般庶民にの生き方からはあまりにもかけ離れているため、参考に出来ないのではないか、ということです。

 

もしできるとすれば、70年前の日本人の生活のように、食糧、エネルギーの奪い合いの結果としての大戦争の後であろうと考えます。それは兼好や良寛のように自ら選んだ道ではなく、強制されたものであるだけに辛い、辛い道でした。今の世界を見ると、大戦争の気配が感じられるだけに、残念ながら、このような道を歩まざるを得ないのが現代の人類のようです。

 

末武さんの見解も染谷の見解も明るい見通しではありません。それらに対するご意見を承ります。

19日)の研究会は犬塚さんと末武さんの発表です。

犬塚さんの発表要旨は以下の通りです。

タイトル「偶発性の再生としてのレジャー:人間存在と社会における」

環境制約対応型社会づくりのためには、技術、政治、産業の

各面における総合的な革新が必要であるが、合わせて、生活

様式・ライフスタイルの変更と、その基盤にある世界観・人間観の転換が必要である。

19世紀産業革命以降の都市化・工業化社会の発展に応じて、

自由時間の問題が一般のものとなった。それは構造的に工業化や専門化、市場化など、近代原理とその現れに対するアンチテーゼとして働いてきたが、現代ではその関係が逆転して、自由時間問題が産業成長の推進機能を果たすようになっている。

産業・市場に回収された人間性の問題、マーケティングによ

って創造される欲望の問題などの克服に、レジャーの再生・

自由の回復の課題を見出すことができる。

レヴィのヴァーチャル論およびネットワーク社会論は、その

ための有力な手掛かりとなるものであるが、その可能性の開花の前に、すでに産業の技術による偏向を受けているともみられる。偶発性contingence概念は、この問題に対する、存在論的な基点として位置づけられることを論じる。

末武さんの発表の要旨は以下の通りです。

地球未来白書から、民主主義、世界的視野と意思決

定、倫理を取り上げ、民主主義などは、開発途上国の人たちからも望ましいとされながらも、権力者などからなかなか受け入れられていない状況や、ビル・ゲイツなどが倫理を主張するようになった状況等について説明する。

 

なお、問題提起として次のようなことを提示します。

 

個人に対しては欲の縮小を勧めますが、反対に、国家には拡大を許容するという正反対の態度が見られるということ。

これは、先日の研究会で「日本人とジャワ人の幸福観の比較」を試みたのですが、そのときに出た批判もまえたところで出てきた疑問です.

第67回環流文明研究会は予定通り、2月20日に行われました。発表は染谷の「日本人とジャワ人の幸福観の比較研究」と題して前者の物質主義的外向的幸福観に対して後者が精神主義的内向的という違い、その社会的背景の違いからそのような違いが生まれるのではないかという発表でした。

日本にも物質主義的幸福観への批判があったし、あるという批判が出ました。最近出された中野孝次の『清貧の思想』や菅付雅信の『物欲なき世界』を挙げることができます。

問題はそのような忠告があるにも関わらず物質主義的幸福観がまだ主流なのはなぜか、ということかと思います。

次いで末武 透さんの地球未来白書のうちの女性問題、科学技術の問題、保健医療の問題を詳しく論じました。研究会のHPの資料をご覧ください。

なお、次回は3月19日(土)午後1時から実践女子大学日野キャンパスで行います。発表者は末武さんと犬塚さんです。(2月27日・染谷記)

 

お知らせが遅れまして申し訳ありません。

 

次回(第67回)は2月20日(土)午後1時から実践女子大学日野キャンパス本館1Fの映像実習室で行います。

最初に私(染谷)が発表し、次いで末武さんの順番にします。およそ1時から3時までが染谷の発表、10分ほどの休憩をはさんで、末武さんに発表してもらいます。

 

染谷は、日本とインドネシアの幸福観の大きな違いを論じます。日本人の幸福観が外向的物質収奪的なのに対してインドネシアのそれが内向的精神的非収奪的という違いがあります。日本のそれは欧米のそれを追随したもので、今日の環境問題と食糧問題を引き起こした膨張的なのに対して、インドネシアのそれは350年にわたるオランダの支配下で縮こまった、限界状況における知的方策という違いがあります。

日本を含む先進諸国の頭打ち的状況のなかで目指すべきはインドネシア的幸福観ではないかと思うのですが、皆様のご意見をうかがいます。

 

末武さんのタイトルは「地球白書2015による男女同権、科学技術と保健医療」で、趣旨は男女同権の進捗、科学技術、保健医療の進展と問題、懸念、です。(2016.2.17染谷記)

 

第66回環流文明研究会は、予定通り1月23日(土)午後1時から実践女子大学本館1Fの映像実習室で行われました。

 

発表者は神出瑞穂氏と末武透氏でした。

 

神出氏は、「環流文明と格差問題」と題し、クレディ・スイス証券の2014年度彫塑報告、l国際NGOオックスファム2014年報告などが出している直近の報告をもとに、近年所得格差が極端に開いていることを指摘した。2015年時点における世界の経済的に恵まれていない下位半分すなわち36億人の資産総額が上位62人の資産総額に均しいという。2010年は388人、2014年は80人だった事実と比較すると近年急速に格差が開いていることが明白である。 

 

格差是正についてピケティ氏は富裕層への課税強化を提言しているが、藤巻氏によれば、日本はすでに実施している、したがってアメリカほどには明瞭な差異はないという。

 

格差が開いていることは、自由経済の必然的結果だと思います。「自由」それはアメリカをはじめとする自由主義国の第一の価値であり、それを否定することはできないでしょう。しかしどんどん開く格差に苦しめられている大多数の人々を見るとき、果たしてこの野放図な、放任主義的自由は許されるのでしょうか。格差がこのまま進めば、いつかカタストロフィに人類は遭遇するのではないでしょうか(染谷記)

 

次いで末武氏の「地球未来白書2015年版」の「人口と資源」および「貧困格差」についての解説がありました。詳しくはこの研究会のHPの「公開文書」をご覧ください。(2015年1月25日・染谷記)

 

 

先日(17日)に、次回の研究会でとうぎすべきことを提言しました。「なぜ大きな格差が生まれるのか、その原因はどこにあるのか?」という趣旨の問題提起でした。

 

改めて「大きな格差」が生まれるのか?について考え、討論したいと思います。

 

たまたま、19日の朝日の出版物紹介記事としてアンソニー・アトキンソンの『21世紀の不平等』(東洋経済新報社)が紹介されていました。アトキンソンは例のピケティの師匠とのことです。再分配の提言が主眼だそうです。所得分配論が専門のようですから主眼が再分配の提言というのも当然かと思いますが、なぜ大きな格差が生まれるのか、についてどこまで踏み込んでいるのか、荻上チキさんの紹介では分かりません。

ですので、この本が参考になるかどうか、にわかには判断できません。なぜ大きな格差が生まれるのか(小さな格差は文明につきものですが)について適切な本がありますか?お尋ねします。もし可能ならば、そうした本をお読みになった方がいましたら紹介していただけませんか?

 

今の世界はほとんど例外なく「格差」に悩まされています。この「格差」がゆえにISが活発にテロを行う。先日のジャカルタで起こったテロの実行犯がどのような人物なのかまだよく分かりませんが、「格差」の被害者であるこtには間違いない。

アメリカの「格差」はすでに堤未果さんで明らかです。日本は自明です。中国、ロシア、その他も歴然としています。

「格差」は収奪文明の現象です。これを放置すればカタストロフィは必然です。それがだんだん目に見えてきています。昨日のNHKスペシャルを見てその感を強くしました。

なぜ「格差」が生まれるのか、水野先生が利子率が2%を切っているところに着眼し、資本主義が終焉に向かっていることを指摘されました。経済の衰退を背景に政治経済を主導するエリートが、それにも関わらず利益を上げようという無理が「格差」を生むのではないかと思いますが、どうでしょうか。

国民が「経済成長」を欲していることも一因かと思いますが、この点について詳しい事情を教えてください。

マネーゲームで莫大な利益を得ている人も「格差」を生んでいると思います。

いずれにせよ、莫大な利益を得ている、その実態を明らかにしなければなりません。

同じように資本主義を経済の原理としていても各国それぞれ異なった経済システムを持っています。それぞれ利益の挙げ方も異なります。それぞれ異なった利益の挙げ方をしているのでしょうが、そのあたりもつまびらかにしたいものです。

概略以上のように考えました。詳しくは当日の討議で明らかにしたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

明けましておめでとうございます。新春をどのようにお過ごしてしょうか。この冬は暖かい冬で、インフルエンザもまだ流行していないようです。結構なことですが、冬は冬らしくしないと農業や商業にも悪影響をもたらします。暖冬が良いのか悪いのか、当然、人によって受け止め方は違いますね。

 

さて、第66回環流文明研究会は1月23日(土)午後1時から実践女子大学日野キャンパス本館1Fの映像実習室で行います。発表は、末武さんが前回に続いて行います。前回は気候変動でしたので、その後の部分になります。このHPの「公開文書」に掲載されている資料を参照してください。

 

その後、出版物の予定を話し合います。現在考えていることは、現生人類にとって喫緊の課題である、資源枯渇の問題、資本主義の限界、西欧とイスラームの激突、西洋と新興国の激突、の四つの課題についてです。キーワードは「去りゆく西洋文明」です。詳しくは研究会の席で申し上げます。

 

この研究会は誰でも参加できます。皆様のご出席を歓迎します(2016年1月7日染谷記)

 

 

第65回環流文明研究会の報告

 

今年最後の研究会は12月19日(土)午後1時から実践女子大学日野キャンパスの映像実習室で行われました。発表者は熊谷友希さんと末武透さんでした。

熊谷さんは「2015年、移民溢れるドイツを見て」と題して2年間のドイツ滞在で見聞きしたところを話しました。最後の「「ドイツ人」という定義はなくなりつつある?」という問題提起に表わされているように、ドイツは多くの移民難民を受け入れてきた結果、民族構成がますます複雑になっています。ナチス政権時代のユダヤ人排斥を反省したうえに立って積極的に移民を受け入れてきた戦後史がそういう結果を生んだわけです。もちろん1950年代の労働力不足を補うためにゲストワーカーを受け入れてきたという事実も見落としてはならなりません。ネオナチがそれに反対していますが、大勢は移民受け入れ、そして難民受け入れで動いてきました。現時点ではドイツの総人口8千万に対して外国人の総数が800万人、移民の子孫が1600万人という数字を見てもいかに移民が多いかがうかがえます。この点、「移民後進国」と言われている日本と対照的です。

 日本と対照的なのは、家族とともに過ごすことを大事にしている点、劣悪なサービス、そして自己主張などが挙げられました。他方で、勤勉で真面目な民族性など共通する点も挙げられました。いずれも興味深いところですが、それらの相違点と共通点を生み出す文化的背景は異なるはずでそうした点をさらに掘り下げてみると興味深い点を発見ができるのではないかと思います。

ドイツはGDPが日本に次いで第4位でEU内では第1位でEUを牽引する国ですが、加盟国の間の格差の問題やチュニジアやシリアからの難民を抱えるなど難問山積状態で今後の動向が注目されます。

 

武さんは「グローバル的に見た近未来:地球未来白書2015年」と題して主に地球温暖化について細かく説明しました。大気中の二酸化炭素の量はストックとフローに分けて考えなければならないと強調。つまり仮に現時点で二酸化炭素を全く排出しなくなったとしてもすでにストックがあり、温暖化は避けられない。2050年あたりになると2℃の上昇は避けられないとのことです。なお、末武さんの発表は次回に続きます。折しも、今冬の日本は暖冬とされ、ニューヨークあたりは20℃を越える、ドイツでは日本から移植した桜が満開になっている、そしてまたアメリカの一部では旱魃とのこと、温暖化の影響も考えられています(12月26日染谷記)

 

熊谷友希氏のタイトルと要旨です。PPの資料は公開文書に掲載しました。

 

2015年、移民で溢れるドイツを見て」

 

第二次世界大戦以降トルコ移民を中心に受け入れた移民大国ドイツは、更に移民を受け入れようとしており、今、世界中にその動向が注目されていると思います。

世論では、特にイスラム過激派組織が強力になってきている今、悲観的な見方も強まっていて、私がいたデュッセルドルフでもPegidaという反イスラム組織が毎週集会やデモを行っていたり、実際移民のバックグラウンドを持つ若者は教育や職業の面で「ドイツ人」の水準と格差があるといった統計もあります。

更に、パリのテロ以降、シリア人移民のクラスメイトに不信感を持つようになってしまったという友人の声もありました。

しかし、私は、ドイツは移民を排他するのでも、フランスのような同化政策でもなく、移民大国の良いお手本として共存できる社会を作っていけると期待しています。

 

 

 

 

 

次回(12月19日)の末武さんの発表タイトルと要旨です。もう一人の発表者(熊谷友希氏)からタイトルと要旨が届き次第、掲載します。

 

タイトル:グローバル的に見た近未来:地球未来白書2015

 

趣旨:地球温暖化、人口増加、貧富の格差など、さまざまな問題がグローバルに起きている。地球や人類の未来を、未来学者の多くは悲観的には見てはいなく、まだ可能性があるという見方をしている人が多いが、しかしそれでも、現在の状況の全てが楽観的ではなく、人類や世界がよりよい状況になるためにはチャレンジが必要と考えている。私自身は未来を楽観的には見ていないが、彼らが提言しているチャレンジが達成されることによって、近未来までは、より良い状態のグローバルな成長が続くと考えているので、彼らの主張には同感できる。

ミレニアム・プロジェクトは未来研究のシンクタンクであり、その未来研究の一環として、毎年、グローバルに見た世界の状況やグローバルな問題への取り組みに関する進展をウォッチし、2030年の近未来、2050年の中期未来として考えられているシナリオに向かってどう世界が動いているかを報告している。(エネルギーについては2020年のシナリオがある。)

今回は、この地球白書2015年版の概要について説明したい。(水、エネルギー、安全保障についてはすでに説明済。)

また、前回、神出先生から、地球温暖化のモデルについての要望があったので、地球温暖化に関するシステム・ダイナミックスのモデルとその予想について併せて説明を行いたい。

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次回の研究会は12月19日(土)午後1時から実践女子大学日野キャンパスで行います。本館1Fの映像実習室です。

 

なお、この研究会は自由に参加できます。その主題は基本的に新しい文明(文明のすべての領域でぐるぐる回ることで一極集中を避け、少しでも平等を実現する文明)を目指すのですが、回の都度、個別テーマは変わりますので予備知識などは必要ありません。参加ご希望の方はsomeya-y@po2.across.or.jpにご連絡ください。

 

今回は熊谷友希氏の「2015年、移民溢れるドイツを見て」です。彼女はICU卒業後、NECに就職、後に結婚し、夫君のデュッセルドルフ派遣に伴い、2年間同地に滞在、このほど帰国したばかりです。揺れ動く現在のドイツを若い日本人の目で見てきたところを語ってもらいます。

 

環流文明の観点から見ると、EU内部の格差が気になります。

 

いずれ彼女から概要が届きましたら、掲載します。またもう一人の末武氏からの情報が届きましたらこのHPに掲載します。(12月9日・染谷記)

 

次回(11月21日)の資料のうち、「第64回環流文明研究会」の公開文書は、「第64回環流文明研究会改訂版」に差し替えました。変更部分はスライドの2枚目だけです(2015年11月18日・染谷記)

 

次回(11月21日)に発表される星野克美氏の発表資料を「公開文書」に添付ファイルでお送りしました。ご覧ください。「文明滅亡論1」と「文明滅亡論2」です。「公開文書」欄の下のほうにあります。

 

次回(11月21日)に発表する染谷の概要を添付ファイルでお送りします。このHPの「公開文書」に掲載しましたのでご覧ください。なお、今年の比較文明学会(11月8日)で発表したところと一部重なりますのでそれも「公開文書」に掲載します。「第64回環流文明研究会」と「第33回比較文明学会」とあるのがそれです。(11月17日・染谷記)

 

次回(第64回)の発表者は星野克美氏と染谷です。染谷のタイトルは、「文明は人類を繁栄させるのか、滅ぼすのか:欲望に負ける人類」です。その要旨は近日中に公開します。(11月14日染谷記)

 

 次回(第64回)環流文明研究会は11月21日(土)午後1時から実践女子大学日野キャンパス本館1Fの映像実習室で行います。発表者は星野克美氏です。発表内容の要旨は追ってお知らせします。もう一人の発表者は現在のところ未定です。決まりましたらお知らせします。(10月31日・染谷記)

 

第63回環流文明研究会は、予定通り、1024日(土)午後1時から実践女子大学日野キャンパスで行われました。発表は、神出瑞穂氏の「環流文明へのケーススタディ 原子力発電の政治・経済学~原発はなぜ止められないのか」と小林雅博氏の「ベンヤミンにおける技術革新と歴史哲学」でした。

神出氏は日本の原子力行政の基本として、日米原子力協定によって日本の行政はアメリカの管理下に置かれていること、原子力の経済性すなわち自然エネルギーや化石燃料よりも原子力が安いという説(ただしこれについて氏は疑問を呈している)、第一世代、第二世代、第三世代そして第四世代と研究開発が進展し第三世代から第四世代において日本はトップクラスにあること、使用済み核燃料と核燃料サイクルを推進していること、日本は核の抑止力を堅持する一方で原発を推進すること、核の拡散防止を堅持するために原発を推進すること、中国を含め世界は原発を増加させている現状にあって日本はどうするか、国民的議論が必要である。特に日米原子力協定は2018年に満期を迎えるが、それをどうするか、の議論が必要である、といったことが議論されました。

 

2012年に民主党政権下で脱原発が推進されようとしたものの中断し、その後、自民党政権下で原発推進が着々と進められています。地元の市民も原発推進で割れつつも原発推進を路線としている政府の方針に沿う形になっています。日本が地震国であること、いずれも海岸にある日本の原発がテロの標的になりやすいこと、福島の事故で明らかになった原発の経済性への疑問なども含めて議論すべきでしょう。

 

小林氏はとくに低速度撮影技術がもたらした、歴史を見る目の変化、すなわち仮想現実上で歴史的な時間を堰き止め、一つのイメージ空間とされること、その効果を論じました。第一次世界大戦で壊滅的な打撃を受けたドイツが時の趨勢に対して反対の思考をとり、戦争を美化した流れのなかでベンヤミンは映画制作における革新的技法に感心を集中し、それが人々に与えた影響を論じました。

 

いずれの発表も現代日本を考えるうえでその手掛かりになり得る発表でした。そして日本は世界で唯一の被爆国だということ。そしてまた自然の猛威にあって原発の大事故を経験した国であるということ。核爆発がどれほどの災害をもたらすか、それを実際に体験した、世界に例のない国・国民としてその体験に基づいて世界にアピールすべきではないかと、改めて感じました。

(染谷記、20151031日)

次回(第63回)は10月24日(土)午後1時から実践女子大学日野キャンパスで行われます。

神出瑞穂氏による「原発はなぜやめられないか」と小林雅博氏による「ベンヤミンにおける歴史哲学とその技術論的影響について」ですが、その概略は下記にあります。神出氏の概略は追ってお知らせします。(2015.10.12染谷記)

 

  少し遅れましたが、以下に去る9月26日に行われた第62回環流文明研究会を報告します。

「偶発性の再生という課題:危機対処のための風土学」と題した発表で犬塚潤一郎氏は、風土学(Mesologie)の概略とそこに生じる偶発性(cotingence)の問題を論じました。以下に、私(染谷)が受け取ったところも交えて報告します。

風土学は和辻哲郎から示唆を受けたオギュスタン・ベルクが深めた理論です。和辻はモンスーン、砂漠、牧場という風土に生まれる人間の性格を論じましたが、ベルクは、人間と環境の関わりを生態学的次元と技術的次元と象徴的次元に分け、そこに生じる偶発性を論じました。偶発性とは物理的なものと象徴的なものの組み合わせによって生まれる人間のあり方を意味します。それは必然(necessity, 原因→結果)でもなく偶然(chance)でもないあり方です。 

ですから風土とは環境のあり方つまりモンスーン気候地帯とか砂漠地帯とかだけを意味するのではなく、そこに住む人々との間柄(関係性)を意味するというのです。その関係性は相互の働き掛けを意味します。従って環境は人間に作用するが、反対に人間が環境に働き掛け、変化させます。変化した環境は再び人間に作用します。当然、作用を受けた人間は再び環境に働き掛けます。こうした相互作用の連続は今日、頻繁にしかも急速に繰り返されています。 

その急速に進む相互作用は高度に発達した技術によります。その結果はすぐに表れ、しかも予測できない形で表れます。偶発的ということです。 

文明とは人工性の高い文化(広義)です。人工性の低い文化(広義)はいわゆる未開文化と呼ばれる文化(広義)です。文明が生まれたのはたかだか5000年前ですが、持ち前の圧力差(格差)によってつねに動態的で(未開文化は静態的)、その動態性はますます高まり、産業革命、そしてその延長であるIT革命によって極点に達した感があります。高度に発達した技術によって環境は激変しています。しかもさらに技術そのものが新しい環境を形成しています(技術環境化extended technification)。こうした環境に生きる人間が自分を見失ってもおかしくないわけです(自己理解の喪失、自己責任の喪失)。 

昨今、「想定外」とい言葉が巷に流布しています。「想定」とは予測出来る必然性の領域。しかし高度に発達した現代科学技術がもたらす結果は、起こってみなければわからない、不確実性がつきまといます。それをとらえる上でも偶発性という言葉は有効なのでしょう。 

オギュスタン・ベルクの定義に従うと、風土学という言葉は誤解を招きやすい言葉だと私は思います。「風土」という言葉から連想されるのは環境と人間に関わりです。それも和辻にあっては環境からの一方的な働き(環境決定論)を意味し、人間からの働き掛けは度外視されます。ベルクの風土学はその限界を越えるものでした。しかし「間柄」(関係性)の学というのであれば、何も環境と人間の間の関係を明らかにするだけではなく、社会の場にも応用できるように思います。また、国家間の関係にも応用できると思います。国家間の関係も「中間学」(mesologie)としての「風土学」つまり生態学的次元(特に食糧問題)、技術的次元、象徴的次元の絡み合いととらえることができます。地球が「狭くなっている」今日、この観点で切り込む有効性があるのかどうか、私にはまだ確信がありませんが。(2015.10.12染谷記)

第62回の研究会は、予定通り、昨日9月26日午後1時から実践女子大学日野キャンパスの映像実習室で行われました。発表は犬塚潤一郎氏で、小林雅博氏は都合で次回にお願いすることになりました。犬塚氏の発表の概要は後日お送りします。

 

なお、次回は10月24日(土)午後1時から実践女子大学日野キャンパスの映像実習室で、神出瑞穂氏の「原発はなぜ止められないのか(仮)」と小林氏が発表します。

 

次回(第62回、9月26日)の研究会は実践女子大学日野キャンパスで午後1時から行われます。

 

発表者は犬塚潤一郎氏と小林雅博氏です。以下にタイトルと概要を記します。

 

犬塚潤一郎氏のタイトルは「偶発性の再生という課題」で以下はその概要です。

 

資源・環境問題、社会格差の拡大など、自然・社会危機に対応するためには、人間存在・人間世界の相互関係的な構造認識を基礎づけることが必要であると考えられる。20世紀を通じて様々な領域において行われてきた、相互関係的な人間研究の成果を綜合する試みのひとつがA.ベルクによる風土学mésologieである。

風土学の代表的な概念である風土milieu、風土性médiance、通態性trajectivitéについては多く解説されてきたので、ここでは特に、風土écoumène、風物身体corps médial、偶発性contingenceを中心に、風土学の持つ意味について再考する。

他方、今道が技術連関と呼ぶ現代の人間にとっての生活環境、またフッサール現象学から導出される技術化technificationの概念を検討したうえで、現代およびこれからの社会が向かいつつある、技術環境化extended technificationとも呼ぶべき問題を問いたい。

人間にとって、自分が生きる世界や自分自身の存在について、その意味と原理とを問おうとすることは必然的なことである。自然の原理physisと社会の法nomosの探求を通じて、自己了解と自己責任とが検討されてきた。しかし今日、生産・市場・生活のあらゆる領域において進行するシステム化(全体としての最適化を図ってゆく動的構造)、そしてIoTと人工知能の発展(認識と判断の自律遍在化)が、生活世界を統御するとともに新たな自明性evidenceを産出しつつあるのではないか。技術の原理が人間に意味付与(何が何であるかの認識)を強制し、応じて人間が意味ネットワーク(生きられる世界のあり方)をつくりかえてゆく、そのような傾向が絶えず強化され続けているのではないか。技術環境化が、人間の無意識=自明性の領域に明らかな変化を引き起こしていること。そのことが危機の隠れた基礎にあると考えられるのである。

偶発性contingenceとは、偶然chanceでも必然necessityでもない、物理的なものと象徴的なものの組み合わせによって生まれる、個々の人間存在や歴史、文化の存在論的構造を意味する。近-現代では認識が難しくなっている(見えなくなっている)この実存的現象への目をもう一度取り戻すこと、それが危機対処の具体的な方策となることを問いたいと考える。

 

小林雅博氏のタイトルは「ベンヤミンにおける歴史哲学とその技術論的影響について」で、以下はその概要です。

ドイツ思想史において、1918年の第一次世界大戦から、1933年にナチスが政権を奪取する15年間の間に開花した「ヴァイマル文化Weimar kultur」の時代ほど、技術という概念が思想家たちの間において主題的に議論された時代は存在しないだろう。ヴァイマル思想史において、「技術」を主題に思考を展開した代表的人物とその著作としては、カッシーラー『シンボル・技術・言語』、ハイデガー『技術論』(1949)、ベンヤミン『複製技術時代の芸術作品』(1935)、ユンガー『総動員』(1930)などが挙げられる。19世紀末から第二次世界大戦の大破局までつづいた近代的技術とその発展のパラダイムは、ヴァイマル時代のドイツにおいて「表現主義」や「新即物主義 Neue Sachlichkeit」といった芸術的潮流に流れこみ、建築、デザイン、映画、写真などの在り方を全面的に革新した。本発表は、ベンヤミンの『写真小史』という小論において、以上のような近代的技術革新とそれにともなう映像芸術の変容といった契機が、ベンヤミンの歴史についての認識論的構造や時間についての知覚論的形態に対してどのような概念的影響を与えていったのかを検討する。以上、2015年9月13日記)

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やや日数が経ってしまいましたが、7月18日に中央大学理工学部水道橋キャンパスで行われた第61回環流文明研究会の結果を以下に報告します。

保坂氏の「イスラームの拡大と21世紀世界」は概略以下のような発表でした。

世界的な人口増加はイスラーム世界も例外ではありません。さらに強調すべきは難民、移民、出稼ぎなどの形をとって地理的に拡大していることです。そうした現象に対してとくに欧米社会は脅威を感じています。欧米社会はキリスト教を母体にしているから当然といえます。キリスト教とイスラームは異母兄弟の関係にあり、近親であるがゆえにまた反発も強いのです。

現代世界はユダヤ教も交えた一神教の三者間の争いが深刻な事態を引っ張っています。日本はその埒外にありますとはいえ、否応なく巻き込まれています。

 アメリカにおける黒人のイスラーム化は白人の宗教であるキリスト教圏からの脱出です。彼らを苦しめてきた差別からの脱却に他なりません。イスラームは神の前の平等を説き、聖職者はいません。他方、聖職者がいるキリスト教世界は差別の世界です。

 イスラームはそうした特性のほかに、聖俗一元主義という特性をもっています。イエス・キリストという実在の人物を神と認め、信じるキリスト教と、それを否定し、イエス・キリストをムハンマドと同じく一人の預言者と認めるイスラームとの間には乗り越えがたい相違があることも含め、そうした相違をどう乗り越えていくかが21世紀の課題です。

以上は、保坂氏の語りを私(染谷)なりにまとめたものです。

 

保坂氏はとくにイスラームの影響がこれからますます強まることを力説しました。それは日本とて例外ではないといいます。その点について私は異なった見解をもっています。まず(過去の日本人はともかく)今日の日本人はモノに信仰を集める「物神教徒」であり、見えざるものへの信仰が薄い点を挙げなければなりません。そうした「物神教徒」が容易くイスラム教徒になるとは思えません。もちろん「物神教徒」は心が空白になっており、心の問題を抱えているのですが、それを解決できないままになっていますので、その隙間があるゆえにイスラームが入り込む可能性は否定できません。第2に、すでに存在する神道と仏教で曲りなりにも心の問題を解決していると「錯覚」しているために、他の宗教を受け入れる余地はないともいえます。まして(神道、仏教とはきわめて異質な)一神教を受け入れることはきわめて難しいように思います(事実、キリスト教徒はあまりいません)。なぜならユダヤ教、キリスト教、イスラームは造る神と造られた(人間を含む)世界という親子的関係を理解することはできても感じとることは難しいからです。日本人の神観念は人間世界から遠く隔たった高いところに「います神」(お天道様)に他ならないからです。

 

末武氏の発表は、「地球未来白書」の紹介と、Why Nations FailDarong Acemoglu and JamesA. Robinson)の紹介でした。

「地球未来白書」では13のチャレンジとして、持続可能な開発と気候変動、水、人口と資源、民主化、全体最適な意思決定、コミュニケーションとIT、貧困格差、健康、教育、平和と治安維持、女性の地位向上、国境を越えて広がる組織犯罪、エネルギー、科学技術、倫理を挙げているといいます。そのなかで水の問題、平和と治安の問題、そしてエネルギーの問題が紹介されました。

Why Nations Failでは独占的な社会制度をもつ社会と開放的で多様性を認める社会制度の社会の対比が紹介されました。そして前者が停滞するのに対して後者は発展するといいます。

この対比は一見したところ合理的に見えますが、問題があります。たとえばオランダは開放的な社会制度の国とされていますが、実は独占的な国だったのではないかという点を指摘しなければなりません。オランダが先進的な社会制度を築けたのはインドネシアを踏み台にした上でのことだったからです。インドネシアを含めたオランダの社会制度は独占国家だったのです。

 

そのような見方に立てば、一見したところ開放的な社会制度の欧米諸国も軒並み独占的社会制度の国と見えてきます。まして今日のアメリカは、1%が独占する収奪国家(堤未果)なのです。開放的な社会制度の国のはずが、実態は独占国家というわけです。そう見ると、末武氏が紹介した対比は見直さなければならないように思います。いかがでしょうか。

 

末武氏はアメリカ合衆国とメキシコの間にある、元々は同じ社会であったが後に分かれた二つの社会(Nogales ArizonaNogales Sonora)の対比に開放社会と独占社会を見ました。「ちょっとした違い」が両者を分けたというといいます。私は「ちょっとした違い」が分けたとは思えません。アメリカ合衆国に属するか、メキシコに属するか、という大きな違いによるものではないでしょうか?(染谷記:2015815日)

今回の犬塚さんの発表を聞いて、改めて文明の人工性を深く感じ取りました。5000年前に始まった文明がますますその本質である人工性を強めていることを感じ取りました。人類は、さらにこの人工性を強めていくように思われます。しかしそこに疑問を感じています。人工性の限りない増長は可能でしょうか?

 

 

今回も予定通り、6月27日(土)午後1時から実践女子大学日野キャンパスで行われました。今回は、犬塚潤一郎氏の発表で、タイトルは「エコエティカと風土学:環境と倫理の新たな位相」でした。

エコエティカ(生圏倫理学)とは、今道友信氏の造語です。ここでいう生圏とは科学技術によって作られた世界という意味です。

産業革命以来、人類は科学技術によって作られた世界に住むようになりました。そうした世界、今道氏によれば、「技術連関の環境化」とのことですが、科学技術が構築した世界といってよいでしょう。それはますます高度化、肥大化そして広域化しています。現代の人類は多かれ少なかれこのような世界に住まざるを得ない状況になっています。

しかしこのような状況に対応する倫理はまだ確立されていません。旧来の倫理で生きているのが実状です。そのギャップを埋めなければ真っ当な生活はできないはずです。現代人の生き辛さはそこにあるように思われます。

今回の発表では、人間自身がそうした環境の中にあって科学的、技術的(工学的)、システム的になっているという指摘がなされました。これは重要な指摘だと思います。なぜならば、人間はますます自分が築いた世界のなかに閉じ込められているという指摘だからです。

このような閉塞状況をどう打破するか、あるいは打破できないのか、大きく、かつ深刻な問題です。

犬塚さんの発表を聞いて、今道氏が論じたところは、文明そのものがますます文明の本質、つまり人工性、をますます強化(文明の文明化)していることを指摘したこと、そこにある危機感、それを乗り越えるための倫理の確立という問題は、まさに私たちが論じてきたところと一致するということを強く感じました。

犬塚さんの発表タイトルは「エコエティカと風土学」でしたが、風土学については次々回(9月26日(土)の予定)に行います。

犬塚さんの発表の後、「幸福」について少々議論しました。それは、前回の加藤さんが論じたインドネシアのイスラームおよび今回の犬塚さんの提示した倫理に関係があるからです。加藤さんの発表のなかで印象深いことの一つは「私たちはもう十分と思っているから原発は要らない」という原発予定地の人々の声でした。「もう十分」という言葉は「幸福」という意味にも解釈できます。私たち富める国の人間から見ると驚きの声です。私たちの多くは衣食住に恵まれています。しかし多くの人が「もっと」と言っています。この対照はなぜ生まれるのでしょうか。どちらが幸福なのでしょうか、という疑問からの問いかけです。これに関してはさらに議論したいと考えています。(染谷記・2015年6月29日)

 

次回(第60回)は、6月27日(土)午後1時から実践女子大学日野キャンパス本館1階の映像実習室で行われます。発表者は犬塚氏と末武氏です。犬塚氏は宗教に重きを置くインドネシアのような文明と、宗教よりも理性に重きを置く近代文明の比較を論じます。末武氏は近代文明を選択したアメリカ合衆国とカトリックを選択したメキシコの対比を論じます。なお詳細については発表者からのレジュメが届き次第このMLでお知らせします。犬塚氏が提起するところは、第59回で発表した加藤氏の現代インドネシア文明を踏まえた議論になります。

 

次々回(第61回)は、7月18日(土)午後1時から中央大学理工学部(水道橋)で行う予定です。保坂氏の近著『格差拡大とイスラム教』(プレジデント社)で論じたところならびに刊行後に展開したところを論じます。

 

第59回環流文明研究会は、予定通り、去る5月23日(土)午後1時から実践女子大学日野キャンパスの映像実習室で行われました。

発表者は、加藤久典氏(中央大学総合政策学部教授)と星野克美氏(多摩大学名誉教授)でした。

加藤さんの発表タイトルは「イスラームの虚像と実像インドネシアのムスリムとの対話」です。

加藤さんは、長年、アメリカ、フィリピン、オーストラリア、インドネシア等で調査研究を続けてきた社会人類学者で、今回はとくにインドネシアのイスラム教徒にインタビューした結果を踏まえた発表でした。

加藤さんのインタビューの相手は多彩ですが、とりわけ、第4代共和国大統領であった故アブドゥル・ラフマン・ワヒッド氏(愛称グス・ドゥル)と、バリ島で起こった爆弾テロを指揮したとして今もなお収監中のアブ・バカル・バアシル氏が大事です。普通には会えない人たちで、とくにバアシル氏はいろいろな意味で会えない人ですが、よくもインタビューを敢行し、成果を収めたものと感心しております。グス・ドゥル氏はインドネシア最大のイスラム団体であるナフダトゥール・ウラマの議長で穏健派ムスリムの代表、バアシルは原理主義者の代表。加藤さんが強調したことは、グス・ドゥルはもちろんですがバアシルも人間を大事にする人たちだということでした。グス・ドゥルはメディアで流された情報からも人間味が溢れた人というのはその通りだと思いますが、バアシルはメディアで報じられた怖い人、コチコチの原理主義者ないし過激派というよりも、やはり人間味あふれる優しいのようです。原理主義者のイメージはメディアが作り上げたものでしょう。ウラに何があるかは明らかです。

加藤さんの本では、バアシルが世界の政治はウラでアメリカが動かしていると何度も言っています。それを公言するときには怖い原理主義者の顔を見せるのでしょう。バアシルは鋭い感覚をもった政治家、それゆえ現政権には邪魔な人なのでしょう。

発表では、インドネシアが長い植民地支配の歴史、そこにイスラームが抵抗運動の原動力になったことが強調されました。このことは、イスラームに縁のない日本人にはなかなか理解できないことと思います。多少ともインドネシアを知る私(染谷)にはよく分かります。

ISに関する日本の報道は、完全に欧米寄りで、ISは全く悪者と見なされています。後藤健二さんらを虐殺したのでさらに彼らの悪者像を強められました。こうした欧米寄りの報道には気をつけなければならないと思います。日本は日本独自の報道スタンスがなければならないと思いますが、それはほとんど不可能と見えます。なぜならばそれは近代日本人そのものの問題なのですから。

私は、ISもまた、長年続いたインドネシア各地の抵抗運動、欧米による過酷な収奪行為に対する反抗と見ます。その点でバアシルと軌を一にします。ただ、これまで共同行動を共にしてきた息子たちとの間にISに関して亀裂が生じているという加藤さんの話は興味深く聞きました。

私は、イスラームの動きがこれからの世界を揺り動かすのは必定と考えています。イスラームと無縁で来た日本政府、日本人は要注意だと思っています。

二番目の発表は、3月の発表の続編でした。タイトルは “Post-PeakOil”時代の石油異変解読~「石油危機」から「石油文明終焉」へでした。内容はすでにMLで送られた通りです。

すなわち、昨今の「原油安」は一時的で、すでに原油先物に投機資金が流入し原油価格は再上昇、すること。

"OPEC"機能喪失で、安定的な石油供給システムが崩壊すること。

「原油安」を導出したサウジアラビアは、国内石油需要増加のため、石油の海外輸出が頭を打ち、今後は石油輸出減少で輸入国は石油危機に陥るであろうということ。

また、60ドル以下の在来型石油生産は2008年頃にピークアウトしており、今後は石油生産全体のピークアウト=「ピークオイル」を迎えるであろうということ。

石油は「政治財」「紛争財」に変質し、石油生産と石油価格の変動性が強まり、恒常的に「石油危機」に陥るであろうということ。米国シェールオイル生産も2010年代後半にピークアウトを迎え、非在来型石油への投資が停滞すれば、「石油文明」は202535年頃に衰退し(在来型石油3割~6割減)、2050年代以降(9割減~枯渇)に終焉に至るであろうというものでした。

先月の中田氏の研究と重ね合わせると、石油という現時点ではきわめて重要なエネルギー源もほぼ確実に過去のものという印象を強くします。人類の存続のためには次なるエネルギー源が求められます。

最近にわかに水素発電に関する記事が目立ったきました。たとえば22日の朝日には周南市のトクヤマや東ソーが副産物として出る大量の水素の有効活用を模索しているという記事が出ていました。すでに産業界では石油依存からの脱却の道を模索している証しでしょう。

第58回研究会は去る4月25日(土)午後1時から実践女子大学日野キャンパスで行われました。報告が2週間遅れになり、お詫びいたします。

 

発表者のお一人竹内願人さんは「なぜ環流文明研究会は発生したか!」と題して、たくさんのことがらが語られ、それぞれ興味深いものでしたが、全体を通して何を語ろうとしたのか、はっきりしませんでした。それをただしたところ、この研究会で論議されていることが「異端」であり、それゆえに無視されたり、嘲笑されたりするが、それにもかかわらず、敢然と研究会を続けよ、という激励がその趣旨だと分かりました。

私は、この研究会の眼目が現代文明批判つまり「人間が生きていくうえで現代文明が大きな障害になっていること」を明らかにし、「人間が人間らしく生きられる文明を提示すること」であること、それゆえ、現代文明を良しとする多くの方々から見れば、まさに「異端」でしょう。しかしアメリカであれ、日本であれ、人間が人間らしく生きられているのかどうか、疑問を感じているのが実情でしょうから、本研究会がしていることは「まとも」だと考えます。竹内さんも同感でしょう。激励、ありがとうございました。

次の発表者である中田雅彦さんは「石油価格の歴史から近未来を展望する」と題してこれまでの石油価格の歴史とりわけ1986年以来の「安価・豊富の時代」「価格急騰の時代」「高値安定の時代」を紹介し、2030年から2050年を展望しました。石油価格の変動は、さまざまな要因が関わっていますが、とりわけEROI(Energy Return on (energy) Investment)つまり投入したエネルギーに対する回収したエネルギーの量がどれほど高いか、に注目すると、3以上が望ましいとのことです。

現時点ではサウジアラビアは30ほどですから、「ぼろもうけ」ですが、他国企業の超深海油田」は限界に近いとのことです。アメリカはほぼ10で、今のところは収益があるわけですが、限界に近ずいているようです。

総じて2025年から30年の間に、石油に依存した文明は終わりになるとのことでした。それを見通して「技術開発」を急がなければならない、というのが結論と、私は受け取りました。あと10年しかありません。トヨタが水素発電の車を売りだしたり、東芝が太陽光発電で水素発電を起こし、700世帯分の電力を生む実験を急ぐなどはそうした事態を見越した試みなのでしょう。しかしそうした技術開発も多くの難問があり、楽観はできない、ですから私たちの生活様式を変えなければならない、とのことでした。相変わらず、議論は白熱したことを付記しておきます。   (2015年5月30日・染谷記)

アルカイーダにせよ、ISにせよ、ボコハラムにせよ、その「蛮行」は非難されるべきです。しかし彼らがなぜそのような「蛮行」を働くのでしょうか。私は、かつて彼らに「蛮行」を働いた欧米へのリベンジと見ます。「蛮行」には「蛮行」をもって復讐すると見ます。そうした「環流」の外側に日本人はいます。

 

3月18日の朝日でイタリア人ジャーナリストが「ISを巡る状況を作ったのは、日本ではなく、私たち欧州と、その同盟国で、イラクに侵攻した米国なのです。欧米が始末をつけなければならない問題です」と言いました。全く同感です。ただどう始末をつけるのか、そこが問題です。もし、やるか、やられるか、生きるために相手を殺す、二者択一という一神教の論理を貫き通すならそれは愚の骨頂。しかしキリスト教の欧米とイスラムはどちらもその論理を突っ走るような気がします。この点でも両文明は、まさにハンチントンのいう「文明の衝突」に他なりません。

 

それにしても、人道的支援と称して2億ドルの支援を表明した安倍さんは、欧米とイスラーム間の歴史を知らない勉強不足の人です。日本は欧米ではないのです。そんなことは小学生でもわかることです。欧米と自己をアイデンティファイする、明治以来の「伝統」が染みついているのでしょうか。少なくともアメリカと同体化したいというのが安倍さんですね。日本そのものに自らをアイデンティファイしているはずの安倍さんがこの点で、全く矛盾します。アメリカ人の顔をした日本人。彼が何者であるか、まさに、アメリカ人の顔をした日本人、とう表現しか思いつきません。

 

曖昧を好む日本人、決断できない日本人、中間色を好む日本人にとってキリスト教であれ、イスラム教であれ、一神教の論理は理解できません。なぜいのちを掛けてとことんまで戦おうとするのか、勝っても、負けても負の遺産を負うだけなのに、それは十分できるはずなのに。 (2015.5.17染谷記)

 

次回(第59回環流文明研究会)は、5月23日(土)午後1時から実践女子大学日野キャンパスで行われます。本館1階の映像実習室です。

 

発表者は加藤久典氏(中央大学総合政策学部教授)と星野克美氏です。加藤氏のタイトルは「イスラームの虚像と実像~インドネシアのムスリムとの対話~」です。要旨は以下の通りです。

 

現代の世界で、いわゆる西側諸国と社会的・政治的な意味で対立や軋轢を起こしている勢力は、イスラームと言っても間違いではない。十字軍以来続く、キリスト教を基盤においた西側社会とイスラームの緊張関係は今日でも根強く残っている。特に、西側諸国にはイスラームに対する心理的抵抗感や無理解が存在し、それが “危険”、“非人道的”などという極めて否定的なイスラームのイメージを形作っていることは間違いない。それは西欧型の社会発展を目指してきた日本も例外ではない。

 

こういったことを踏まえて、世界で最も多いムスリム人口(イスラム教徒)を抱える東南アジアのインドネシアを例に取りながら、イスラームは社会の中でどのような役割を持っているのか、umatと呼ばれるイスラム社会の現状がどうなっているのかについて分析し、今後の人類の在り方について考察する。特に自由主義穏健派、原理主義強硬派の両者との会話を元にイスラームと非イスラーム社会とのかかわりについて考える。

 

ISだけでなく、イスラーム全体の動向は今日、そして今後、世界を大きく動かすことは明白です。イスラームに最も遠いところにある日本は、政治家にせよ、国民にせよ、イスラームに「音痴」であることは、安倍総理のイスラエル訪問時に顕著でした。彼は日本人の顔をしたアメリカ人ではないか、とさえ思えたものです。キリスト教国のアメリカは、イスラームが何であるかをよく知っているようです。ハンチントンに明白です。それゆえ、戦うしかないと考えているふしが見られます。やられるか、打ち倒すか、と考えているようです。キリスト教にもイスラームにも遠い日本は、その両者と距離を置きつつ、両者の間に入って共存共栄の道を歩むよう、仲介の役割を果たす任務があろうかと思います。この「仲介者」という役割が日本の役割、それは米中間でも発揮できると考えます。アメリカばかりに目を向け、中国を敵視する現政権には難しいと考えます。皆さんはいかがお考えになりますか(染谷記)。

 

また、星野克美氏のタイトルは「Post-PeakOil”時代の石油異変解読~石油危機から石油文明終焉へ~」で、内容は以下の通りです。

  ①昨今の「原油安」は一時的で、すでに原油先物に投機資金が流入し原油価格は再上昇
  ②"OPEC"機能喪失で、安定的な石油供給システムが崩壊
  ③「原油安」を導出したサウジアラビアは、国内石油需要増加のため、石油の海外輸出が頭打ち。今後は石油輸出減少で輸入国(日本など)は石油危機に陥る
  ④60ドル以下の在来型石油生産は2008年頃にピークアウト、今後は石油生産全体のピークアウト=「ピークオイル」を迎える
  ⑤石油は「政治財」「紛争財」に変質し、石油生産と石油価格の変動性が強まり、恒常的に「石油危機」に陥る
  ⑥米国シェールオイル生産も2010年代後半にピークアウトを迎え、非在来型石油への投資が停滞すれば、「石油文明」は202535年頃に衰退し(在来型石油3割~6割減)、2050年代以降(9割減~枯渇)に終焉に至る
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月研究会の中田様の研究発表につながることを重視して、上記のような問題提起をさせていただきます。異論・反論、危機否定論・反対証明論・・・みなさまの活発なご議論を期待しております。
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 第58回環流文明研究会は、予定通り、4月25日(土)に実践女子大学日野キャンパスの映像実習室で行われました。2週間以上の遅れた報告になり、をお詫びします。

 

竹内願人さんの発表の意図は、何事であれ、新しい試みは無視されたり、攻撃されたり、という試練を味わうもの、それにめげず、正しいと確信するところを貫き通すことが肝心という、本研究会へのエールでした。

 

本研究会の趣旨は、日増しに強まっている冨の一極集中、つまり格差の拡大、が、いずれ世界に不安定をもたらすことは当然、という認識に立ち、いかにしてそれを回避するか、という問題意識から始まりました。ふたを開けてみると、むしろ地球からの収奪、つまり地下資源の無軌道な収奪に関心が集まりました。確かに、収奪という観点からすると、経済格差であれ、地球からの自然的収奪であれ、どちらも同根、つまり文明の所業に他なりません。

 

私たちは、「収奪なくして文明なし」という、華やかな文明の暗い影を見ることになりました。一般に文明は明るい方、つまり人間にとっての恩恵だけを見る傾向があります。それは一般的な文明観で、明治以来、日本もそうした考え方で文明を見てきました。しかし私たちはそうした文明観ではなく、文明をトータルに見る、つまり明るい面だけでなく、暗い面も見なければ、文明を見たことにならない、とう考えに至りました。

 

こうした見方は至極まともな見方だと思います。私たちは、こうした全体的ないし総合的見方をもつことが大事だと思います。そうしなければ、いずれ今の文明は行き詰ることになるのは当たり前。それは誰でも納得するはずです。仮に今、無視されたり、嘲笑されたりしても、いずれ無視もできず、嘲笑もできなくなるはずです。もっとも、私たちが懸念するのは、気づくのが遅すぎる、つまり、大きな破局が、気づく前にやってくるということです。少し感覚を研ぎ澄ませば、それを感じ取ることができるはずです。しかし気がついていても、物心両面にわたる収奪を止められないのはなぜでしょうか?

 

最近の研究会の空気は、危惧の念がますます強まっているように見えます。

 

この点について「石油価格の歴史から近未来社会を展望する」と題した中田雅彦さんの発表は衝撃的でした。ただ、その内容は著者の要請で公開は後日とすることにしました。それまで少々お待ち下さい。(5月14日・染谷記)

 

第58回 環流文明研究会は、予定通り、今月25日(土)午後1時から実践女子大学日野キャンパスで行います。

 

発表者は竹内願人先生と中田雅彦先生です。竹内先生のタイトルとレジュメは「公開文書」に掲載します。また、中田先生のタイトルは、「石油価格の歴史 から近未来社会を展望する」です。レジュメは到着し次第、このHPに掲載します。(2015.4.14染谷記) 

 

直近の時期になってしまい、恐縮です。このHPを書こうとするとなぜかひらがなに変換できず、お知らせが遅れました。不思議なことに、今日は機嫌がよくひらがなにうまく変換できるようになりました。

 

第57回環流文明研究会は、今週土曜日(3月14日)午後1時から実践女子大学日野キャンパスで行います。発表者は星野克美氏で「世界経済長期停滞」「日本財政金融危機」「原油安」「長期石油危機」の四つを織り込んだ発表です。いずれも、今日の世界、今日の日本にとって重大な問題です。活発な議論を楽しみにしております。資料は公開文書に掲載しております。

 

途中で、さきに私が提起した「自然を避ける文明・避け過ぎた文明」について論議したいと思っております。自然を避け過ぎた文明として、身近な東京を例にとって議論すると、いろいろなことに気づくことでしょう。東京がいかに「不自然」であるかは田舎に住む人間から見ると明らかです。問題を抱えて当然です。(3月12日・染谷記)

 

第56回 環流文明研究会は、2月28日(土)の午後1時から実践女子大学日野キャンパス研究棟1Fの映像実習室で行います。この研究会はどなたも参加できますので関心がおありの方は是非ご参加ください。なお、電話連絡は090-6339-2088、携帯のメールはmergisae@ezweb.ne.jp

にお願いします。

 

発表者は小林雅博さん(立教大学)、神出瑞穂さん(科学技術・生存システム研究所)、星野克美さん(グリーンソフィア)です。 

 

小林さんの発表題目と要旨は以下の通りです。

 

 ベンヤミンにおける永遠回帰概念について」

 

要旨

 

 19世紀半ばから後半、ブランキ、ニーチェ、ボードレールにおいて〈同じものの永遠回帰〉という思想が一斉に受肉した。革命家、哲学者、詩人に霊感を与えたこの〈同じものの永遠回帰〉という思想は、歴史主義的時間概念、自然科学的物理法則に基づく宇宙観、そして資本主義とその生産様式である大量生産という、三つの近代的なものとの緊張関係から発生した思想であるとベンヤミンは分析した。

   本発表では、以上のようなベンヤミンの〈永遠回帰〉に対する分析を検討した後に、この分析が現代文明を生きる我々にとっても有意義な分析であるのかを検討する。

   ベンヤミンは、「同じものの永遠回帰」に対して次のような両義的な評価を下している。ひとつは、この思想が「浅薄で合理的な歴史主義的時間性の補完思想に過ぎない」、もうひつとは「この思想は歴史主義を転覆させる可能性を持つ」という評価である。

   ベンヤミンが「永遠回帰」思想に「浅薄な合理主義」に他ならない歴史主義的時間性の転覆のポテンシャルを認識していたことは間違いない。しかし、そのポテンシャルでさえも、空間や運動あるいは生そのものといったものの尺度であることから自由になっていない時間性であるということが、「永遠回帰」思想に対する全面的肯定を留保させた原因かと思われる。

   以上の検討を終えた後に、ベンヤミンが思考していた時間概念は「浅薄な合理主義」に回収されない異質な時間概念であり得たのかを、最近のベンヤミン研究の成果とともに検討していき、そして、「永遠回帰」思想に対する批判的検討から導かれた上の時間概念は、輪廻などに象徴される東洋の還流的時間性とどのように切り結べるのかを検討していきたい。

神出さんのタイトルと要旨は以下の通りです。

タイトル:「近代の超克」論からみた環流文明研究の今後の課題
>
>
(骨子) 「収奪文明から環流文明へ」とはいわば、21世紀の「(新)近代の超克」である。
>
       昭和1612月の大東亜戦争勃発の前後のいわゆる「近代の超克」論議は
>
       敗戦後、戦争応援の思想戦、軍部へのちょうちん持ち、プロパガンダ、のろわれた

       座談会 などとくそみその評価を受けてすべてはドブに捨てられた。
>
       しかし最近になって見直し論が目に付くようになってきた。資本主義と格差の問題に

       しろ、大東亜共栄圏に似た中国提案の東アジア共同体にしろ、 戦前、戦中の「近代

       の超克」時代と似た状況に現代文明が置かれているからであろう。
>
>
       筆者は昭和の「近代の超克」を全面的に擁護するのではない。是々非々の立場を

       前提に したうえで、一連の「近代の超克」活動とそのような思想が生まれた背景、ル

       ーツを分析した結果、 温故知新、換骨奪胎して環流文明の要素として検討すべき

       項目、さらに、環流文明研究でまだ採り上げていないが是非検討すべき課題を抽出

       した。

 

星野さんのタイトルと要旨は以下の通りです。

 

タイトル:資本主義と石油文明の終焉~「長期停滞」「原油安」の深層を解読する~

 

研究の論旨は、

  最近の世界経済を巡る「長期停滞」「原油安」の深層を解読すると、需給構

  造が不安定な石油危機と、資本主義経済の成長限界と衰退の「長期すう勢」が

  見えてくる。

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環流文明研究会は、予定通り、2015124日(土)午後1時から東海大学代々木キャンパス4号館413教室で行われました。

発表は、梅原宏司氏(立教大学)の「梅棹忠夫の複製文化論―情報とエネルギーの過剰消費に中で」と、松本亮三氏(東海大学)の「脱成長時代の文明観と地球観」でした。

 

発表内容はすでにお送りしたレジュメにある通りです。

 

梅原さんの主張は、梅棹忠夫が「情報産業」を主唱した右肩上がりの1960年代とは大きく異なった現代にその(情報とエネルギーの)消費文明はどうあるべきか、という問題提起です。そこでは、なぜ日本において消費文明が急速に発展したのか、という問題提起がありました。この疑問に対する議論は深まりませんでしたが、今後の課題としてよいかと思います。コメントの中には、過剰に対する制御が働くのではないか、というのがありました。それに関連してホメオスタシスの概念が出ました。

 

松本さんの主張は、単に生物だけでなく無機物も同等に位置づける文明観と地球観をとるべきではないか、というものです。そこでは、無生物である、たとえば「山」に対する見方をめぐって「アニミズム」の再検討が必要となりますが、その際、タイラーが提唱した「アニミズム」の「物心分割論」が批判されなければなりません。松本さんが強調したのは有機物であれ、無機物であれ、同格に見られるべきではないか、というものでした。

 

そこで問題になることは「いのち」です。「いのち」なるものをどう見るか、キリスト教やイスラームのような一神教では来世へ延長するそるという考え方があります。他方で、来世などというものはなくただ自然界を環流するだけとする考え方もあります。たとえば「人間は土から生まれ、土に帰る」とか、「千の風になる」つまり空気になる、という考え方もあります。こうした考え方では(人間を含む)有機界と無機界は連続します。どう考えるかは自由ですが、人が住む自然環境に大きく関わっていることは確かです。日本人は無理して一神教的生命観を持つ必要はないと思います。

 

研究会では、ガン告知で動揺するのは、生命観が明確ではない人だという報告もなされました。医療の現場に関わっている医師の話です。

 

いずれにせよ、この「いのち」についてはさらに深く考える必要があります。次々回あたりの研究会で議論したいと考えております。

 

 

依然として今日の世界で強力なパラダイムになっている、物心二元論を乗り越えなければ、21世紀の世界は成り立たないという声はあちこちで聞こえます。依然として物心二元論的文明が大手を振っている現代にあって新しい文明を提唱している比較文明学会と環流文明研究会に一つのヒントを与えてくれる発表でした。

 

なお、物心一元論は特に日本文化にいまなお強く認められることは、拙論「日本語とインドネシア語に見る「神の視点」と「虫の視点」を併せもつ言語文化の大いなる可能性について」(『比較文明研究』第17号、2012、麗澤大学比較文明文化研究センター」ならびに「文化の起源・文明の起源」(『比較文明研究』第19号、2014、麗澤大学比較文明文化研究センター)の41頁以降をご参照ください。これらの紀要は麗澤大学比較文明文化研究センター、〒2778686 千葉県柏市光ケ丘2-1-1、0471733761fax0471731100RR-Center@reitaku-u.ac.jp にお問い合わせください。その際、染谷から紹介があったとお伝えになっても結構です(2015126日・染谷記)

 

次回の研究会(2015年1月24日、東海大学代々木キャンパス、4号館)の発表は二つですが、そのうち、一つはすでにそのレジュメをお送りしました。もう一つのレジュメが届きましたのでお送りします。「自然」と「文明」という二分した考え方に対して、文明もまた自然の生態系の一部とする考え方を提示しています。(2015年1月17日・染谷・記)

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脱成長時代の文明観と地球観

松本 亮三(東海大学)

 

1.「持続可能な発展(開発)」から「脱成長」へ

近現代の産業社会は、地球上の資源への過剰なまでの依存によって成り立っており、必然的に起こった環境破壊という問題に対して、1970年代から、<「経済」か「環境」か>を巡って深刻な議論が戦わされるようになった。1980年、UNEPWWFとの協働の基にIUCNは『世界保全戦略』を発表し、この戦略の目的は「生物資源の保全を通して持続可能な発展(開発)〔sustainable development〕達成の一助となること」[1]であると説いた。「持続可能な発展(開発)」という考え方を一般に広めたのは、国連の「環境と発展(開発に関する世界委員会の報告書Our Common Future1987:邦題『地球の未来守るために』) であり、本報告書で「持続可能な発展(開発)とは、将来の世代がそのニーズを充足する可能性を損なうことなく、今日の世代のニーズを充足するような発展(開発)」と定義されることになった[2]

今日、国連や日本も含めた先進諸国は、「持続可能な発展(開発)」を旗印として、経済的発展と環境保護のバランスを保とうと努めている。だが、実際にそれは可能だろうか。特に発展途上国の人口増加、工業化の要求と、地球資源の急激な減少―生物多様性の消失、化石燃料等非生物資源の枯渇―を前にして、もはや経済と環境の妥協点は見出しえないように思われる。

ローマクラブが夙に指摘したように、成長は限界に来ていると考えなければならない。経済発展を乗り越えた新しいパラダイムの構築が必要だとする意見に耳を傾けることが大切であろう。例えば、セルジュ・ラトゥーシュは、脱成長=デクロワサンス(décroissance)を主張する。これは、「経済成長優先社会、つまり経済成長のために経済成長を行う以外の目的を持たない経済によって構築されている社会との決別の必要性を主張する」スローガンであり、「持続可能で、楽しみと分かち合いにあふれる(コンヴィヴィアール)」社会を構築しようとする考えである[3]。いま、「文明」と「環境」のあり方を根本から考え直すことが必要となる。

 

2.「環境と対立する文明」から「生態系に含まれる文明へ」

「持続可能な発展(開発)」もまたスローガンである。「自然の保護」、「人間と自然との調和ある関係」ということも頻繁に語られてきているが、このスローガンが人類と文明の発展・開発を主題としている以上、自然は文明とは異なったものとして位置付けられ、自然は、文明に資源を供給する、逆に言えば人間が利用(支配)する対象、すなわち文明を取り囲む他者=環境でしかないことになる。すでに拙論[4]で述べたように、この観念は、ユダヤ・キリスト教に淵源をもち、デカルトやベーコンを経て形成されてきた、近代西欧文明特有の思想である。

文明は、人類が作り上げたものであり、確かに自然環境とは異なるものである。しかし人類=ヒトは700万年前に誕生した哺乳綱の1科であり、現生のホモ・サピエンス(私たち)は、およそ約20万年前に誕生したヒト科動物の1種である。さらに遡れば、ヒトは40億年前から37億年前に誕生した最初の生命体から、長い時間をかけて生起した進化過程の産物であると言うこともできる。ヒトを含む地球上の全生物を構成するタンパク質は、宇宙から飛来したアミノ酸に由来するという可能性も指摘されているが、そうでなくとも、あらゆる生物は、最初の宇宙空間に存在し、あるいは第1世代の星の内部で核融合の結果生じた諸元素によって構成されている。ヒトが星のかけらでできていると言われる所以である。このように考えるならば、人類も文明も、生命進化の過程だけでなく、137億年に及ぶ宇宙進化の過程の産物だと考える必要が生じてくる。いわゆる環境とは、文明と対立するものではなく、文明を包含する生態系(ecosystem)―動植物、さらには大気や水や岩石などの無生物とともに文明を包み込む生態系の主要な部分として理解することが肝要なのである。

 

3.生命を超えた生成と循環:地球生態系の理解に向けて

 「文化と自然」、「社会と自然」、「文明と自然」という対立概念で世界や地球を理解することはできない。また、このような二分法では、成長や発展を至上命令とする近代を超克することはできず、かえって地球の存続を危うくするものとなろう。二分法を脱して、生態系を一元的に解釈しようとする試みは、これまで数多くなされてきた。その古典的な好例は、人間も動物も主体として自らの暮らす生態系を記号として知覚しており、独自の環世界(Umwelt)に生きているとするユクスキュルの議論[5]である。また、W. ウィーラーも、同じように生物記号論の立場から人間の文化を生物進化との連続の中で理解しようと試みている[6]。しかし、人類や文明を生態系の中で他の構成員とともに理解しようとする試みも、多くの場合は動物や生物への言及に、すなわち生物圏(biosphere)の内に留まっており、無生物は単に物理的環境に留め置かれているのみである。

 ここで注目されるのが、40年以上前からが提唱してきたガイア(Gaia)理論である。ラブロックは、「地殻がマグマ(地球の熱い内部)と出会う場所、つまり地下一六〇キロメートルの深さからガイアは始まり、さらに海洋と空気を経て一六〇キロメートル上空に進み、宇宙との境界にあたる熱い熱圏で終わる」とし、生命の誕生以来、地球を生命が存在できる環境に維持してきた「生物も非生物も含めた総合システム」であると考える[7]。サイバネティクスに依拠して築かれたこの理論は、地球という大生態系の中で、あらゆる構成員(生物と無生物)を同列に位置づける場を用意したものと言える。ラブロックはガイアを生理学的システムであると語っており、その意味で、ガイア自体を広い意味での生命系として捉える追随者も多いが、ガイアは、私たちが伝統的に理解してきた生命系とは異なるものであることは明らかである。宇宙に存在する無機物から生成された「生命」は、決して生命から生命へと循環するのではなく、様々な無生物とともに、ガイアの中で循環しているのだと考えることが重要である。このように認識することによってのみ、私たちは地球に生きる本当の「意味」を見出し、未来に向けて人類並びに文明のあり方を問い直すことができるのではないだろうか。

 

 


[1] IUCN, World Conservation Strategy, 1980, p.IV.

[2] The World Commission on Environment and Development, Our Common Future, 1987, Chap. 2: Para. 1.

[3] ラトゥーシュ、セルジュ(中野佳裕訳(『<脱成長>は世界を変えられるか?』、作品社、2013pp.57; 70.

[4] 松本亮三「総合知としての比較文明学―その構築に向けて」『文明の未来』(比較文明学会30周年記念出版編集委員会編)、東海大学出版会、2014.

[5] エクスキュル、クリサート(日高・羽田訳)『生物から見た世界』岩波文庫、2005.

[6] Wheeler, Wendy, The Whole Creature: Complexity, Biosemiotics and the Evolution of Culture, Lawrence & Wishart, 2006.

[7] ラブロック、ジェームズ(秋元勇巳監訳、竹村健一訳)『ガイアの復讐』、中央公論新社、2006pp.56-7

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明けましておめでとうございます。今冬は、連日のように日本海側が大雪、太平洋側はカラカラ天気。自然の厳しさを改めて実感させられる冬ですね。そんな日本に飛び込んできたフランスの連続テロ事件。それもフランスだけではないとメディアは伝えています。日本も標的にされないという保証はありません。テロリストは「ムハンマドの復讐」といっているようです。これも「文明の衝突」ですね。オランドさんは躍起になって「宗教の問題ではない」と叫んでいます。ということは、格差の問題ということなのでしょうか。だとしても、宗教と大きく関わっていることは自明ですね。どうしようもない一神教と一神教の戦い。そこに格差問題が絡んでくるために問題は複雑化します。

 

ところで、お知らせします。次回の研究会は、1月24日(土)午後1時から東海大学代々木キャンパス4号館で行われます。

発表者の一人である、梅原宏治さんからレジュメが届きましたので、以下に添付します。

副題が「情報とエネルギーの過剰消費の中で」となっております。梅棹さんは楽観論者でしたので、エネルギーの消費問題についても、深刻に考えておりませんでした。成長主義の現代文明と符合します。議論が楽しみです。(1月11日・染谷記)

 

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「梅棹忠夫の複製文化論―情報とエネルギーの過剰消費の中で―」

はじめに:梅棹忠夫は、日本でももっとも早い時期に「情報産業」について考え始めた人物である。

彼の議論は、いわゆる「情報社会論」「消費社会論」の先駆けともいえるものであった。

梅棹の議論を検討しながら、現代の消費文明を再考してみたい。

1.「情報産業論」

そもそも梅棹は、生物全体を、情報で動くシステムと考えていた。彼の博士論文も、そのような内容であった(オタマジャクシの社会性を、運動のパターンから解明したものである)。

1959年から梅棹は、さまざまな雑誌に、のちに「情報産業論」としてまとめられる文章を掲載し始める。

これは、生物の一種である人間が、情報によって動かされることを繰り返し強調しながら、それを統御する存在としてメディア産業の重要性を説くものであった。

2.情報産業としての万博・民博・メディア・文化行政

梅棹の議論は、おりから輸入されたマーシャル・マクルーハンの議論とも重なり(輸入前に梅棹がマクルーハンを読んでいた可能性もある)、一躍時の論壇や政権の注目するところとなった。

彼はこの議論を、1970年の大阪万博に適用し、さらにその跡地の活用であった国立民族学博物館にも適用した。また、その当時から設立され始めたシンクタンクにも関与した。

そしてこの議論を、文化行政にも適用した。

彼の考えは、情報を発信する中央として大きなメディア装置(万博、民博など)を構想し、そこから情報を一方的に流すというものであった。

ちなみに現在、文化ホールが大量に全国にできているのは、梅棹の議論の適用という側面がある。これは梅棹が、けいはんな地区に全国のホールの中心である「国立芸術文化センター」を作ろうとしたのだが、結局成立しなかった。そのため、末端だけが大量にできてしまったのである。

3.梅棹忠夫の議論の位置

梅棹の議論は、ある意味では古典的な一方向的マス・コミュニケーション論であった。彼の新しさは、この議論を、「情報」で動く動物としての人間のとらえ方と結びつけたことにある。

この考えは、現代の消費文明の在り方を確実に言い当てている。

しかし、論者の考えでは、梅棹の考えには二つの問題点がある。

第一は、人間を完全に「情報で動く動物」と考えてしまったことである。この考えは、人間を情報で操作するという考えに容易に結びついた。梅棹はまさにその操作の側に常に立とうとし続けたのである。

第二は、情報を流すためには、大量のエネルギーが必要だということである。梅棹はこの面に無頓着であったようにみられるが(70年代の公害問題を反映した「情報産業は公害ゼロです」などの発言は残っている)、実際は今日までにいたる電力問題となって表れている。

まとめ:今日、消費文明の乗り越えが叫ばれているが、梅棹はそうした近現代の自覚的デザイナーであった。彼の議論と業績を再検討することは、消費文明の乗り越えに寄与するであろう。

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なお、時間があれば、前回に引き続き、「3K(厳しい、汚い、臭い)の自然とどう付き合うか?」と題して一つの問題提起をしたいと思っています。それは・・・。

 

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今冬の寒さでつくづく感じるのは、自然の厳しさです。その他に、汚い、とか臭いといった、自然そのものがもっている属性があります。

それらを忌避するために人類は文化(広義)を生みました。その極が文明だと私は考えます。

現代文明は、それをみごとに達成しました。外がどんなに寒くても家の中は温かい、外がどんなに乾燥していても家の中は適度な湿度を保てる、ハウスダストもウィルスも遠ざけることができるのが今の家です。

それはそれでいいのですが、同時に何かを失っているのですね。一例として、虫を追い出しました。東京の今の住宅地には蚊も蠅もいなくなったようです(代々木公園にはいましたが)。それはそれでいいのですが、虫がいなくなれば鳥も生きていけません。いなくなった鳥のなかにツバメもいます。益鳥として大事にされてきたツバメも追い出してしまった。もちろんツバメだけでなく、スズメもいなくなりました。

そこで、いつも思い出すのは、インドネシアの朝です。元気な鳥たちの鳴き声で目を覚ますインドネシアの朝です。今の東京では鳥たちの元気な声は聞こえないのではないでしょうか(田舎のど真ん中にある我が家は夏の間、けたたましい蝉の声で目を覚まします)。

言いたいことは、自然から身を遠ざけ過ぎたということです。もっと近づけなければならないのではないでしょうか。ただ、近づけば、当然ながら、自然の3Kに悩まされます。どうしたらいいのでしょうか?(2015年1月13日・染谷記)

54回還流文明研究会は、予定通り、12月13日(土)午後1時から東海大学代々木キャンパスで行われました。小林雅博さんがインフルエンザのため、発表が出来なくなったという連絡がありましたので、神出瑞穂さんの発表と、私の問題提起で終わりました。

 

神出さんの発表タイトルは、「環流文明と新近代の超克」で、私たちが提言している「環流文明」にとって「近代の超克」論で議論されていることの中で参考になるものがあるのではないかという問題提起でした。

 

「近代の超克」論は昭和17年(1942年)の『文学界』に掲載されたシンポジウムの結果ですが、神出さんは、この「近代の超克」論を踏まえ、「デモクラシーの超克?」、「資本主義の超克?」、「自由主義の超克?」、「米中の世界支配の超克?」、「科学の役割と限界の超克?」、「「進歩の理念」の超克?」という形で問題提起しました。

 

デモクラシーの超克?というのは、間接民主主義の問題点をどう越えるか、という問題提起、

資本主義の超克?というのは、今や終焉に近づいているかに見えるマネー資本主義の問題、

 

自由主義の超克もまた、それに関連して起こっている貧富の格差の根元にある自由主義の問題、

米中の世界支配の超克?とは現在起こっている国際関係の問題を解決できるのか、できるとすればどういう策があるのか、という問題、

科学の役割と限界の超克?は科学の発達でいろんなことが判ってきた半面ますます判らないことが判ってきたというパラドクス、そしてまた前回の研究会で議論されたように、あまりにも複雑となってしまった社会を解明するに科学の手法は可能なのか、という問題、

進歩の理念の超克?は直線的発展の時間観に対する疑問、というように理解しました。

 

議論は多岐にわたりました。なかんずく「無」の思想が「近代の超克」の基盤となるという京都学派の主張をめぐる議論、これに対しては「無」を文明の原理にすることには無理があるという疑問が提示されました。また、三木清の「協同主義」と「東洋的ヒューマニズム」に関しては、「協同主義」についてはともかく、「東洋的ヒューマニズム」は「東洋」という縛りを越えて全人類にまで拡張できるのではないかという議論がありました。もちろん今日ではヒューマニズムそのものに問題があります。人間を含めた地球全体を考える考え方が必要ですので、ヒューマニズムを越えなければなりませんが、それでも今のアメリカで起こっている人種差別や中国で頻発している人権蹂躙問題を考えると、依然としてヒューマニズムを考える必要はあります。

 

その他、まだ他にも議論されましたが、神出さんは来年の2月ないし3月にも再度整理した形で問題提起するということですのでその時を待つことにします。(20141214日・染谷記)

  

11月15日の研究会で議論されたことの一部を紹介します。

 

池田さんの発表をめぐって議論されたこと

・「開かれた環流文明」とは、世界大的に拡大した共助の文明 ケネス・ボールディングのいうラブ・システム

 

・気候温暖化に対しては「適応」せよ 資源の枯渇化に備えた輸送方法 欧米ではホハンセン(補帆船?)の建造が進んでいるが、日本はまだ。日本郵船の太陽光パネル、帆をつけた大型の輸送船はあるが。

 

・「神話」とは正当に理由づけられた世界観 「人権神話」、「地球温暖化神話」、「持続可能神話」、「エコフット神話」、「ピークX神話」など

 

・現実を見て成長主義的モデルからの脱却を

 

・科学の限界

 科学で未来予測は不可能、あまりにも複雑だから。 できることは大きなトレンドモデル、「神話」の創生

 

・私益と共益の対立 その対立をどう調整するか?

 

・ミクロ的思考とマクロ的思考の協同

 

・我々の思考は人間中心主義 自然を含みこんだ思考へと転換すべき。

 

西村さんの発表をめぐって議論されたこと

 

・経済成長=幸福という考え方を見直す

 

・厖大な借金を抱え込んでいる日本は経済成長を止めることができない。ゼロ成長、脱成長は不可能

 

・安定成長も結局は成長 資源の枯渇を招く

 

・一切の先入観、既定の思考から自由になったところから考えることが必要

 

・救命ボートを作る 海外からのエネルギーに頼らない自立的な生き方を求めて

 

・こうした自立的運動が主流にならないのはなぜか? サブシステムと位置付けて実践していくしかない。 (11月24日・染谷記)

 

 

第53回の研究会は、予定通り、2014年11月15日(土)午後1時から実践女子大学日野キャンパスの映像演習室で行われました。

 

今回は、西村 豊さんと池田 誠さんの発表でした。

西村さんは「都市生活者の農力向上委員会」を運営している人です。「自耕自活の奨め」を旗印にしたこの委員会の詳細については、http://reculti.orgをご覧ください。

低い食糧自給率、エネルギー自給率、さらに食糧やエネルギーをめぐる争奪戦が日増しに激化している世界情勢を考えて行動しています。今、日本ではあちこちでこのような活動が展開していますが、その一例として注目されます。

今回は世界と現代日本の文化・政治・経済・社会を批判的に見ながら、ご自身が展開している活動についての説明がありました。

とりわけ「「冨」は草木に宿る」ということばが印象的でした。西村さんの活動の原点かと思います。

こうした人間という生き物が生きる原点から考え、生きようとすることが今、改めて見直されるべきでしょう。

池田さんの発表については、資料が届き次第お知らせします。 (11月19日・染谷記)

 

第53回環流文明研究会の発表内容です。西村 豊さんは 、「日本が直面する危機とその対応策案」と題して発表されますが、その概略は以下の通りです。 現代という時代は、どの国も成長を旗印に国家的発揚を遂げようとしています。その危うさは明らかです。西村さんはそれに代わる代替案を提示しています。それは現在、世界的な流れになろうとしています。池田 誠さんの発表はタイトルのみを提示し、内容については後日お送りします。タイトルは「気候変動と地球環境モデルについて(開かれた地球環流文明社会の提案)」です。(11月12日・染谷記)

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□自己&経歴紹介

*生誕:1960年にとあるサザエさん一家で産声。

*小中時代:「人はなぜ学ぶのか?」悩み始める。

*高校時代:謎は、「人はなぜ生きるか?」に発展。

*大卒以降:とりあえず惨めな人生は避けよう、と。

*突然開眼?:アラサーで「神は死んでいた」と悟る。

*その後の右往左往:一般人なりすまし頓挫

*1から考えている人は多い。しかし・・・。

*その後の試行錯誤:看板倒れに失望する日々

*その後の起死回生:来日公演で得たもの

*その後の孤軍奮闘:これまでの主催活動

 

□オルタナティブ思考体系

GDPとは、富国強兵力

*安定成長とは、総借金雪だるま地獄

*欲望を煽る錬金術のタネ

*先進国が潤う構造。

*貧困撲滅のために学校を作るカラクリ

*株式経済の功罪

*地球は永遠に続く大地ではなく、丸かった。

*限界を超えて経済成長を図るには・・・。

*市場経済の手法で市場経済の歪を正すことはできない。

*成長の限界に適応できる新しい価値体系は?

*「富」は草木に宿る。

*人と自然の共生とは、アグロエコロジー

*エコフット<>1というパラダイム・ポイント

*エコフット≧1,0で真逆になる善悪

*脱消費という打開策

 

□日本が抱える危機の元凶

*非民主化で覇権を争う国際社会の現状

*加工貿易というビジネスモデルの崩壊

*産業は、石油の消費で成り立っている。

*農産物でさえ石油でできている!

*原発という国家的詐欺

*自然エネルギーの限界

*自転車操業国な日本

*持続不可能な日本の末路

*孤島で野生化したヤギの宿命

*アベノミクス「3本の矢」の本質

*目指すべきは、地域自給/流域経済圏

 

□地域自給に向けた対応策

*オーガニック・シェアファーミングという試み

*地域自給圏の基礎を固める社会実験。

*コミュニティの原点に立ち返る社会実験

*生産効率の悪い農地を贈与経済の基盤にする。

*年金生活の破綻/老人の孤立に備える。

*石油に頼らない持続可能な農を試みる。

*「人と自然の共生」モデルの理想を目指す。

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第53回環流文明研究会は、11月15日(土)午後1時から実践女子大学日野キャンパスの映像演習室で行います。発表は西村 豊氏の「日本が直面する危機とその対応策案」と、池田 誠氏です。その概要は近日中に掲載します。(11月10日・染谷記)

 

第52回還流文明研究会は、予定通り、10月18日(土)午後1時から実践女子大学日野キャンパスの新装なったばかりの「映像演習室」で行われました。

 

最初に、私が先日行われた比較文明学会の報告を行いました。「文明交流と日本文明」が本大会のテーマでした。それにそって、松本会長が特別講演で、彼の文明概念と「比較」という方法、そして総合の学としての比較文明学の使命について語りました。次いで染谷が基調講演で、文明そのものが矛盾を孕んでいること、その矛盾は異文明同士が交流するときしばしば激突の様相を呈し、悲劇を引き起こすことを、戦国時代に伝わった西洋文明によって何が起こったのか、それをどう解決の方向にもっていったのか、について論じました。

 「文明交流と日本文明」と題したシンポジウムは言語学者、歴史学者、哲学者など4人のディスカッサントによって展開されました。言語学者の板橋義三氏は日本語が南方と西方からの言語を平和的に導入したこと、また、歴史学者の川本芳昭氏は中国との関わりで日本文明が変化してきたこと、また、哲学者の小林道憲氏は世界中の文明交流で日本文明が成立してきたことを論じました。他方、歴史学者の島田竜登氏は長崎出島にやってきた「奴隷」がイスラム教徒であり、彼らがもたらした影響を論じました。

 「文明交流と日本文明」というテーマそのものが大きく、焦点を絞りにくいためにとくに集約できる結論はありませんでした。ただ、個々の事象に関する情報は貴重で、フロアはそれぞれ新しい知見を得たと思います。

 個別発表は、実に多岐にわたり、それぞれが刺激に富むものでした。ただ、それぞれ個別の事象についてきめの細かい研究ではあっても「文明」とどう関わるのかがはっきりしない発表が散見されたのは残念でした。

 

なお、この環流文明研究会の位置づけをめぐって理事会と役員会で討議され、改めて比較文明学会内の「研究会」として位置づけられたことをここで記しておきます。

 

次いで、犬塚さんが「共時化する文明と人間」と題して詳しい説明がありました。これは先の比較文明学会大会で発表された論題ですが、かなり多くの時間を割いて詳しく説明されました。メディア技術の著しい発達で現代人の時間観は現在に集約し、未来への展望(想像力)を失っているというのが骨子でした。こうした状況が極めて危険であることはいうまでもありません。

 

犬塚さんの発表のなかでとくに注目されたのはハイデガーのGe-stellという概念でした。これは「駆り立てる」という意味で、私たちはメディアによって「駆り立てられている」ことが論議されました。今、私たちは駆り立てられている自分自身を、距離を置いたところから眺めてみる必要があります。そのように自分自身を見ない限り私たちはどこに行くのか、気がついたらとんでもないところに行っていたということになりかねません。否、すでにそうなっているようです。私たちは何かに駆り立てられている、それは何なのか、駆り立てられて我を見失っていること、これほど愚かなことはないと思います。

 

こうした愚かな行為が戦国時代に起こったことに染谷は言及しました。ザビエルら宣教師が伝えたキリスト教を信じたキリシタン大名と民衆は「異教を排撃せよ」という宣教師の言いつけを忠実に実行したのです。彼らは自領民を国外に追放し、殺害しました。冷静に考えれば実に愚かなことでした。しかし彼らは信仰ゆえにそうしたのです。「私以外を神としてはならない」という厳しい一神教の掟に従ったのです。それは敬虔な信仰態度でした。だが、それが災いを引き起こしたのです。400年経った今から見れば愚かしい残酷な行為であることは自明です。しかしそのように冷静に見ることができる今日の私たちではありますが、オウム真理教が引き起こした大事件はまさに400年前のキリシタン大名とほとんど変わらないのです。そして「悪の枢軸」と叫んでイスラム急進派を攻撃したブッシュ大統領と変わらないのです。そしてまた、「イスラム国」の異教徒への残虐行為も変わらないのです。発達したはずの21世紀も、17 世紀とあまり変わっていないようです。

 

駆り立てられると人間は何をするか判らないのです。恐ろしいです。しかしそれは紛れもなく人間です。悪魔ではありません。鬼でもありません。人間自身、しかも敬虔な人間自身なのです。(20141021日・染谷記)

 

このたび、新しく京都大学の鎌田東二氏がこの研究会に参加されましたのでお知らせします。先日の比較文明学会で意見交換していた際にこの研究会に参加を呼び掛けたところ快諾された次第です。鎌田氏は非常に精力的に活動され、また著作も多いですから、今更ご紹介するまでもないでしょう。(10月16日・染谷記)

 

次回は10月18日(土)午後1時から実践女子大学日野キャンパスで行われます。会場は、これまで使わせていただいていた建物の正面玄関を入り、まっすぐ行って右に曲がり、左側にあるガラスの部屋です。

 

発表は、まず私が先日の比較文明学会大会の講評を話します。その際、私が行った基調講演についても若干触れます。50分という時間を与えられたにもかかわらず、時間配分の不手際で最後の結論部分をカットせざるを得なかったものですからそれも含めて話したいと思っています。もちろん「環流文明」に関わるものであることは言うまでもありません。

 

次いで、犬塚さんに「現代文明における時間性の衰退」について発表してもらいます。お楽しみに。(10月15日・染谷記)

 

次回(第50回)の環流文明研究会は、9月20日(土)午後1時から実践女子大学日野キャンパスで行われます。テーマは自閉症について、プレゼンタは竹内願人さんです。竹内さんは『アンナチュラル 小説・自閉症(上・下)』(共栄書房、2012)の著者です。自閉症は文明病の一種というのがご主張ですが、発表の詳細は後日お知らせします。(7月22日・染谷記)

 

第49回環流文明研究会は、予定通り、去る7月19日に行われました。今回もまた熱心な議論で溢れていました。詳細は後日お知らせします。ご期待ください。(7月22日・染谷記)

 

第49回環流文明研究会は、予定通り、今週土曜日(7月19日)午後1時から実践女子大学日野キャンパスの犬塚研究室で行います。中田雅彦氏(株 テクノバ)による「 迫りくる石油供給の危機~その最先端情報を分析する」で、極めて重要な情報がもたらされます。来場はどなたも歓迎です。

発表概要は「公開文書」に掲載しました。(7月15日・染谷記)

 

第48回環流文明研究会の概要を公開文書に掲載しました。ご覧ください。上から14番目、「永遠の自己増殖」です(7月3日・染谷記)

 

第48回還流文明研究会は予定通り、6月21日(土)午後1時から実践女子大学日野キャンパスの犬塚研究室で行われました。今回は、前回発表された水野和夫先生に再度お出でいただき、前回ではまだ議論できなかった点などについて質疑応答が交わされました。また、星野克美先生が水野氏の発表に関連した発表も行い、質疑が交わされました。

水野先生は、まず、永遠の自己増殖を続けようとする資本主義はすでに限界に突き当たっているというご持論を提示しました。資本主義が限界に突き当たっているからこそバブルを発生させ、それを収縮させるという方法を用いて維持しようという。その周期は3年。それを繰り返すことで資産を持つ者は資産を増殖させることができる。しかし労働者は逆に負担が増し、没落し、無産者となる。日本に則していえば、1980年代の無産者は3.2%だけだったが、現在では30%となり、今後も増えて行くことが確実という。

暴走する資本主義は止めなければならないと水野先生はいう。水野氏の発表に対して多くの質問、コメントが出され、活発な議論が繰り広げられました。その詳細は後日にもお知らせします。

 

次いで、星野克美氏より「「資本主義衰退論」の研究課題」と題する発表がありました。その詳細はすでにお知らせしたこのHPの「公開文書」をご覧ください。交わされた議論については後日お知らせします。(6月28日・染谷記)

 

第48回 環流文明研究会は、今週の土曜日(6月21日)午後1時から実践女子大学日野キャンパスの犬塚研究室で行います。先の合同研究会で発表された水野和夫氏をお招きし、まだ議論が尽くされていない問題などをめぐって討論したいと思っています。(2014617日・染谷記)

 

先日行われた、第3回比較文明学会・環流文明研究会の合同研究会(第47回環流文明研究会)の発表要旨ならびに質疑応答の概略を公開文書に掲載しました。ご覧のうえ、ご質問等がありましたら「お問い合わせ」あるいはsomeya@culnature.orgお願いします。(染谷・2014520日記)

 

第47回 環流文明研究会は、第3回 比較文明学会環流文明研究会の合同研究会として、予定通り、昨日(5月17日)午後1時から同海大学代々木キャンパス4408教室で行われました。予想を越える多くの方々がお集まりになり、熱心な議論が続けられました。今回は、近著『資本主義の終焉と歴史の危機』をはじめ多くの著書で各界から注目を集めている水野和夫先生にお話をいただき、それをめぐって質疑応答と討論が4時半まで続きました。その概略は後ほどお知らせします。(2014年5月18日・染谷記)

 

次回(第47回)は、比較文明学会との合同研究会です。今週土曜日(17日)午後1時から東海大学代々木キャンパスの4408教室(4号館4階)で行われます。

 

日本を含む先進国を推進してきた資本主義経済が今や最終局面に入っているとする、『人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか』(日本経済新聞社、2007年)、『世界経済の大潮流』(太田出版、2012年)、『資本主義の終焉と歴史の危機』(集英社、2013年)など多くの著書で知られる水野和夫氏による「資本主義の終焉と歴史の危機」がテーマです。

 

学会員、研究会メンバーのみならず、どなたも参加できます。歓迎します。

 

発表要旨を「公開文書」に掲載しました。ご覧のうえ、当日の参考にしてください。(2014515日・染谷記)

 

第46回 環流文明研究会は、予定通り、4月19日に行われました。活発な議論が展開され、この研究会はますます活況を呈しています。

なお、次回は5月17日(土)午後1時から東海大学代々木キャンパスで行われます。この回は、比較文明学会との合同研究会の形で行われます。今、各界から注目を集めている水野和夫氏をお招きし、近著『資本主義の終焉と歴史の危機』(集英社)に沿ったお話を聞くことができます。どなたも歓迎です。どうぞ、お誘いあわせのうえ、ご来場ください。お待ちしています。(5月1日・染谷記)

 

新しいメンバーが加わりました。中央大学大学院総合政策研究科の辻 信行さんです。宗教と民俗学の境界領域を研究しています。(414日・染谷記)

 

第46回環流文明研究会は予定通り、4月19日(土)午後1時から実践女子大学日野キャンパスで行われます。

 発表は神出瑞穂さんの「 インド・牛の複合生存システムと還流文明」、池田誠さんの「世界と日本の人口から見た現代文明の危機と転換の可能性」そして水野和夫氏の所論をめぐる議論の3本立てを予定しています。

 

神出さんと池田さんの発表要旨および「水野和夫先生の著書の要旨」は「公開文書」に掲載しました。ご覧ください。

 

水野和夫氏の発表は5月17日(土)午後1時から東海大学代々木キャンパスで行われる第3回比較文明学会・環流文明研究会の合同研究会で行われますが、それに備えた議論を行います。(4月13日・染谷記)

  

第45回環流文明研究会は予定通りに行われました。その報告を「公開文書」に掲載しました。今回もまた議論は多岐にわたり、白熱したやりとりのうちに終始しました。そのすべてを載せることはできませんでしたが、幾分でもお伝えできれば幸いです。(2014318日・染谷記)

 

次回の研究会で発表する「物語としての人類進化」のレジュメを「公開文書」に掲載しました。Landauが紹介するダーウィンをはじめとした古人類学者の進化論の基底に神話や民話におなじみの「物語」があるという指摘は興味深い指摘だと思います。進化論は実証的客観的科学の成果ではありますが、その根底に神話や民話に通じる「物語」があるということ、この指摘は大変貴重だと思います。改めて、科学とは何なのかを考えました。客観性とは何なのか、を考えました。お送りしたスライドの最後にHuxleyの科学に対して大きな希望をもっていることを紹介しましたが、そうした科学への輝くような信仰をもてたのは19世紀の終わり(1889年)でこそでした。いな、私が学生だった今から半世紀ほど前も科学がすべてを解決してくれると叫ばれ、私もその信仰者でした。ですが、もはやそうした信仰を持てる人はいないのではないでしょうか。もっとも、ips細胞やSTAP細胞でまた信仰がよみがえったかもしれません。ただ、慎重になったことは確かなようです。

 

ただ、研究会では、進化論は人類が最後に「文明」をもったことを「勝利」と礼讃していますが、それは「独りよがり」ではないか、つまりその勝利によって敗者となった人々と地球を考えないという意味での「独りよがり」ではないかということを中心に発表しようと考えています。とかく礼讃気味に語られる進化論に警鐘を鳴らしたいと思います。現代世界が抱える問題の根底を考えようというのが私の意図です(染谷・14年3月2日記)

 

次回の研究会は3月15日(土)13時から実践女子大学日野キャンパスの犬塚研究室で行います。

「進化論の盲点」について染谷が発表します。アメリカの人類学者ミシア・ランドーのHuman Evolution as Narrativeを参考にして考えたところを発表します。彼女は努力の成果としての勝利を称揚する物語がダーウィンなどの人類進化論の基底にあると言っています。一見したところ、それ自体に問題はないと思われます。ランドー自身も何の疑問を呈していません。しかしそれは文明のオモテだけしか見ていない一面的な見方です。勝利には敗者がいます。植民地支配を努力の結果の勝利とみなした場合、支配を受けた側をどう考えたらよいのでしょうか。

生物世界では弱肉強食の論理が妥当だとしてもそれをそのまま人類にあてはめて考えることに大きな問題があります。

ダーウィンは弱者に配慮するのが文明と言っています。だとすれば、西洋文明は植民地支配を受けた側に配慮して当然でした。それはどうなのでしょうか?

因みに、佐倉統さんの『進化論という考え方』(講談社新書)を読んでもそうした疑問を呈していません。彼もオモテしか見ていません。

植民地主義は過去のものではありません。現代世界も形を変えた植民地主義に支配されています。進化論が強力に働いていますから当然です。(2月21日・ 染谷記)

 

先日の合同研究会で出された質問の一つをめぐって発表者の末武さんから補足がありました。「話題提供」をご覧ください。(220日・染谷記)

 

第2回 比較文明学会・環流文明研究会合同研究会は、あいにくの悪天候ではありましたが、予定通り、東海大学代々木キャンパスで行われました。その概要は、このHPの「公開文書」に掲載しましたのでお読みいただけると幸いです。ご質問がありましたら「お問合わせ」に投稿してください(2月18日・染谷記)。

 

5月17日(土)午後1時から行われる第3回 合同研究会では多数の著書等で有名な水野和夫氏(日本大学教授)のセミナーがあり、その後、氏を交えた現代文明論を展開する予定です。詳しい内容については後日お知らせします。ご期待ください。(2月4日・染谷・記)

 

2月15日の合同研究会の基本線を示すレジュメを「公開文書」に掲載しました。(2月4日・染谷・記)

 

2月15日に発表される末武さんのレジュメを「公開文書」に掲載しました。(2月4日・染谷・記)

 

山口広文さんが新しくメンバーとなりました。山口さんは国立国会図書館調査及び立法考査局長を務められ現在は参与となっている方です。よろしくお願いします。(2月4日・染谷・記)

 

2月15日の合同研究会で発表される星野克美さんの配布資料が届きました。「公開文書」をご覧ください。(1月27日・染谷記)

 

「野蛮から文明へ」という見方に対して異議を唱えました。「話題提供」をご覧ください。2014127日・染谷記)

 

早いものでこの研究会も5年目を迎えました。いつも熱心なご議論、ありがとうございます。おかげさまで私たちの地道な活動は着々と成果を出しています。回を重ねるごとにそれを実感しています。今年もこの研究会が更なる発展を成し遂げられることを祈願しています。

2014年最初の研究会は予定通り、去る1月19日(土)実践女子大学日野キャンパスの犬塚研究室で行われました。主題は来月15日に行われる比較文明学会との合同研究会の準備でした。

それはおおむね以下のようです。

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タイトル:「文明のパラドクスを突く文明の本質解明と未来文明の構想に向けて」

 文明は(莫大なエネルギーを使う)蒸気機関に例えられる。それに対して文明以前(いわゆる野蛮・未開)は(少ないエネルギーで作動する)時計に例えられる。

エネルギーは格差で生まれる。主体(主)客体(従)の文化(思想)、分断隔絶の文化(思想)を伴う。

それゆえ文明にとって格差は必要不可欠。

文明の持続のために格差は維持ないし拡大は必要不可欠。それゆえ自己展開あるいは膨張を結果する。

格差はそれを正当化する(カーストのような)イデオロギーや制度を必要とする。それに固められた社会は安定する。しかし常にそれを崩そうとする脅威も必然。自由と平等の相克。それゆえ常に不安定。環流文明への転換で危機を乗り越えられる。

文明の維持発展のためには絶えずエネルギーを補給しなければならない。それはエネルギー・物質をめぐる争奪戦と環境破壊を必然的に惹起する。

 文明はめぐみをもたらすがそのめぐみが大きければおおきいほどわざわいももたらす。得れば得るほどますます失うというパラドクス。失うものは何か?

 得ることにだけ関心を集中させれば、失うことは視野に入らない。それが招く悲劇に気づかない。

もはや「無限」という考え方は意味を失った。「有限」という考え方に切り替える必要がある。環流文明への転換で危機を乗り越えられる。

しかし現状を見るに人類は 自滅の生き物に見える。人類に将来はない。

この筋を念頭に置きながら、現代文明の起源とプロセスについて末武さんが「現代文明の始まり」と題して20分ほど発表し、続いて現代文明の転換について星野さんが発表するという段取りで進めます。フロアーの質問と意見の様子を見ながら二人の発表者から補足するということも考えています。   (2014.1.27 染谷記)

次回(第44回) 環流文明研究会は1月25日(土)午後1時から実践女子大学日野キャンパスの犬塚研究室で行います。この日は、2月15日(土)の午後1時から東海大学代々木キャンパスで行われる、比較文明学会との合同研究会で議論すべき事柄を練り上げる予定です。

 

合同研究会の開催通知は近日中に比較文明学会会員にはハガキで送られます。また、学会のHPにも掲載されます。一足先に、環流文明研究会のHPの「公開文書」に掲載しておきます。(1月15日・染谷記)

 

新年、明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。

 

今、日本は長いデフレから脱却するという悲願に向けて動き出しています。政府は経済復興を最優先に、富士山の世界遺産登録、オリンピック・パラリンピックの開催などとにかく何であれ手掛かりになりそうなものを最大限利用して浮上を図ろうとしています。円安は物価高を引き起こし、さらに4月からの消費税増税で経済が冷え込むことは必至でしょう。円安はしばらく続きそうだといっても海外に出てしまった企業がすぐに「帰国」することはありません。「車は急に曲がれない」のですから。

 

少子高齢化が加速している現在の日本に経済復興は可能なのでしょうか。政権は目先のことしか考えられなくなっています。無理と分かっていても経済成長を叫ばなければ政権を維持できない、あとは「野となれ山となれ」の無責任の世となったようです。つけは結局国民に回ってくるのです。環流です。

 

他方、東アジアには暗雲が漂っています。まさか、とは思いますが、戦争というものはちょっとしたきっかけで起こり得ます。

 

特定秘密保護法が強引に国会を通すところにもその裏に何かがうごめいています。

 

そんなことを頭に置きながら、今年最初の研究会は1月25日(土)午後1時から実践女子大学日野キャンパスの犬塚研究室で行います。2月15日(土)に行う予定の、比較文明学会との合同研究会の下準備を行う予定です。この合同研究会のテーマ等は以下の通りです。

 

テーマ「『進歩・発展』をめぐる比較文明学-未来文明の構想に向けて」

 

今や、「進歩・発展」を掲げる文明が地球のすみずみにまで行き渡り、人類に幸と不幸をもたらしています。その功罪は「進歩・発展」が経済分野に偏重するあまり、文化や社会の「進歩・発展」が抑えられているからと考えられます。この合同研究会ではそれに代わる新たな未来文明を構想します。今回はその第一段階として現代文明を徹底的に解剖し、病巣をえぐり出す試みです。

 

この合同研究会は、2月に引き続き、2,3カ月後に第2回、そしてさらに第3回と連続して行うつもりです。(2014年1月8日・染谷記)

 

 

全世界の皆さんへ

 

第43回 環流文明研究会は予定通り、12月14日(土)午後1時から実践女子大学日野キャンパスの犬塚研究室で行われました。

① 最初に、本研究会と比較文明学会が共同して行う合同研究会について協議されました。この合同研究会は、2014年2月15日(土)午後1時から東海大学代々木キャンパスで行われます。

 

テーマは「進歩・発展という誘惑・破滅への道」あるいは「進歩・発展は英雄神話・人類はひたすら墓穴を掘る」とします。このテーマのもとで以下のようなことが議論されます。すなわち、一挙に世界化した現代世界は「進歩・発展」という「信仰」に洗脳されていること、これは疑いの対象となっていないほどに絶対化していること、とりわけ経済世界はこの旗印のもとで「成長」を遂げてきたこと、しかしその経済世界も本来の経済から「市場」が牽引する経済に変質していること、政治はそれに奉仕する政治となり下がり、社会も文化もそれに引き回されていること、文明を文化・政治・経済・社会の総体と見た場合、一言でいえば、現代文明は市場の独裁で取り仕切られ、バランスを欠いていること、が議論されます。

 

こういう文明が人々を幸せにするはずはありません。この文明で恩恵に浴した勝者も、不利益を被った敗者も共に不幸となりました。文明は文化・政治・経済・社会のバランスがとれてはじめて真っ当な文明となるはずです。そうしてはじめて人々は幸せになることができます。そうした文明を構築するにはどうしたらよいか、この合同研究会ではそのことを議論したく思います。

 

2、3人、あるいは3、4名の、理系と文系の発題者からの手短な発題をもとにして、議論に多くの時間を割く形の研究会にします。発題者は研究会のメンバーが主体となりますが、メンバー以外からも招き入れる予定です。

さしあたってこのような文明が世界化した近代世界史と現状を概観するところから始めますが、そこで確認したいことは「進歩」とか「発展」という思想がどのように立ち現れ、世界を牽引したのか、を明確にしたいと考えます。世界を熱狂させ、狂わせ、戦乱を巻き起こした根源因だからです。

もとより、テーマの大きさ、深さから、この合同研究会は一度で終わらせることはできません。少なくとも、数回、重ねなければなりません。

 

 合同研究会についての協議の後、末武さんのは発表がありました。ヨーロッパ中世の修道会が「吾唯足知」という思想のもとに質素な生活を営んでいたが、やがて大領主になるに伴って世俗化したこと、それが近代へとつながるという発表でした。なお、「吾唯足知」についてはユダヤ教、儒教、老荘思想、ヒンドゥー教、仏教、イスラムにもあることが神出さんからメールで指摘されていました。

 

次いで杉本さんからIPCC第5次報告に関する発表がありました。第5次報告は以前の報告から大きく変わったところはないこと、ただ、地球温暖化は人為的に引き起こされていることがより確実になっていることが強調されているとのことです。

 

以上につき、ご質問あるいは補足等のコメントがありましたらこのメールへの返信の形でどうぞ。

次回は1月25日(土)午後1時から実践女子大学日野キャンパスで行われます。    (20131216日・染谷記)

 

本日(12月14日)の研究会で発表される第5次IPCC報告の要旨を公開文書に掲載しました。ご覧ください。研究会にご参集ください。(20131214日・染谷記)

 

麗澤大学比較文明文化研究センターの『比較文明研究』第18号(2013年6月発行)に掲載された『収奪文明から環流文明へ』への書評を「公開文書」に転載しました。お読みいただけると幸いです。(20131212日・染谷記)

 

次回(第43回)の環流文明研究会は予定通り、今週土曜日午後1時から実践女子大日野キャンパスの犬塚研究室で行います。発表者は末武さんと杉本さんです。末武さんの発表は前回の継続です。杉本さんの発表は「第5次IPCC報告について」です。杉本さんの発表レジュメは明日に配信します。

 

杉本さんから送られてきた「報告書」を読むと、IPCC第5次報告は以前の報告よりさらに踏み込んで、大気の二酸化炭素の増加、海面上昇、雪氷の減少などに関する諸状況の確度が増しているようです。

 

地球の異変は「着々と」進んでいるという報告です。今以上の化石燃料の使用に「待った」がかかっています。

 

といって原発再稼働も「待った」を掛けなければなりません。現政権は市民の安全より産業界の要請、国際競争に勝ち抜くという要請に応えてしまいました。

 

しかし競争に勝ったところでその先に待っているのは「敗北」(異常気象)でしかないと知るべきでしょう。 (2013年12月10日・染谷記)

 

次回、第43回環流文明研究会は12月14日(土)午後1時から実践女子大学日野キャンパスの犬塚研究室で行います。発表は、杉本さんによるIPCC最新報告について、と前回に引き続き、末武さんによる16世紀以降の世界史を予定しています。いずれも大変興味深いテーマですので是非たくさんの皆さんに加わってほしいと願っています。(20131120日 染谷記)

 

第42回 環流文明研究会は、予定通り、1116日(土)午後1時から実践女子大学日野キャンパスの犬塚研究室で行われました。

末武さんが「世界が繋がった時-1617世紀世界史」と題した発表を行いました。その趣旨は、現代世界が1617世紀に端を発していること、すなわち、それまでの各地域が独立的に文明交流圏を形成していたのに対し、この時期以来、世界は一つの文明交流圏を形成したということです。しかしそれは「新大陸発見」だけでなくそれに続く世界貿易路の確立と物品の世界流通があって初めて出来上がったのだという発表でした。

 

今回は、その初期であるポルトガルとスペインの消長にスポットをあてた発表でした。ポルトガルとスペインが最初に非ヨーロッパ世界に出ていった理由はイスラム勢力(イスラム商人)とユダヤ商人との戦いにあります。イスラム商人が東西交易で莫大な利益を手にしているのに対抗して、この両国は果敢に「新大陸」とアジアに進出します。その結果、多大な富を手にすることになりました。ユダヤ商人もそこに関わっています。しかし産業に秀でた彼らと対向するあまり、彼らを追放し、あるいは宗教裁判などによって弾圧したために、結局、衰退も自らのうちに引きこんでしまいました。

 

その一方、イギリスやオランダはユダヤ商人を利用し、かつ自国内に民間人の育成に励み、産業の振興に力を注ぎました。それはポルトガルやスペインができなかったことで、その相違が両者の間の差を生みました。

 

発表は詳細にわたりました。そして金融に振り回されている現代世界を理解するうえで非常に貴重なポイントを提示する発表でした。すなわちノマッド的(遊動的)なファンドはイスラム商人やユダヤ商人に通じるものがあるという点です。このノマッド性に対して世界の多くの民族(国民)は定着性を強くします。日本人も後者に属します。今日の世界はこの両者の間のせめぎ合いと見ることができます。およそ異質な両者がどう折り合いをつけられるか、が現代そして今後の世界の課題です。16世紀以来の世界を見る限り、折り合いはつけられませんでした。今日の世界を見ても解決は程遠いあるいは不可能に見えます。

 

ヨーロッパ世界は、平和な時期がまれといってよいほどに戦乱に明け暮れた世界でした。戦乱は浪費を生みます。国家が財政危機に陥るのも当然です。そして人民を苦しめます。ポルトガルやスペインは王族が支配する国家でした。力強い民間人が育ちませんでした。支配者は収奪の権化でした。その点で、市民が育ったオランダやイギリスは違いました。

 

いずれにせよ、戦乱が彼らの文明を鍛え上げました。日本は「文明開化」の名の下で彼らの文明を、憧れの念をもって、受け入れてきました。その文明理解も彼らの文明のウラ、つまり残酷さやしたたかさは見ることはなかったのではないでしょうか。今もなお、見えていないといわざるを得ませんが、皆さんはいかがお考えになりますか。日本人は定着的農耕民的世界観と価値観をもっています。容易に他者を信用する民族です。「人を見たら泥棒と思え」という人間観を持ち合わせていません。ノマッド的民族とは決定的な違いです。もっとも、ノマッド民族も同類の間の信用は絶対ですからどちらも信用に価値を置いていることは確かです。ただ、仲間内に信用を限るノマッド人と仲間外も信用する日本人の間の間隔は大きいように思います。このあたりをどう考え、対処するか、21世紀を生き抜く上でどうしても避けて通れない我々の課題ですね。

 

余談ですが、私がインドネシアにいたとき、「インドネシア人は人を信用しない人たちだ」という日本人が多くいたことを思い出します。確かに、日本人から見ると、インドネシア人は疑い深い民族に見えます。それほどに日本人は人を信用する(信用しないことを罪悪視する)のです。まじめです。「まこと」を大事にする民族です。しかしこういう民族はむしろ少ないのではないかと思いますが、どう思いになりますか。(20131119日・染谷記)

 

次回(第42回)(11月16日)の研究会は、末武さんが以下のような発表を行います。大変大きな、かつ切実なテーマです。堤未果さんのレポートにも関係しますので適宜触れていきたいと思います。どなたでも参加できます。開始時刻は午後1時、場所は実践女子大学日野キャンパスの犬塚研究室です。もし場所が分かりにくかったら090-6339-2088にご連絡ください。   染谷臣道

 

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題:世界が繋がった時-1617世紀世界史-

趣旨:16世紀の大航海時代の幕開けまでは世界は、中国文明圏、インド・中近東文明圏、アステカ、インカなどがお互いに独立した状態で存在しているだけだった。

大航海時代の到来で、コロンブスの新大陸発見、バスコ・ダ・ガマのインド航路発見などで世界が一つに繋がり、今日の世界の原型が形成されたのだが、コロンブスの新大陸発見やバスコ・ダ・ガマのインド航路発見が直接、今日のグローバル化された世界の基となるしくみを形成したわけではない。

基軸通貨の成立、銀行の成立、株式会社の成立など、現代に見られる金融システムの成立が、新大陸の発見による大量の銀の流入による資金流動化をきっかけにして、スペインではなく、オランダや英国の産業発展につながり、その後の植民地時代に繋がっていく。

1617世紀に起きた大航海時代を、貿易と産業振興や金融システムの発達の面から検討し、なぜ、今日のような資本主義社会が成立したかを検討することで、今後予想されるであろう、国際貿易や国際金融のしくみが崩壊した後のことを考えるヒントが得られるのではないかと考えます。

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第41回環流文明研究会は予定通り、10月19日(土)午後1時から実践女子大学日野キャンパスで行われました。ただ、予定されていた『貧困大国アメリカ』をめぐる議論を始める前に現代が抱えている根本的問題について自由な議論が始まってしまい、『貧困大国アメリカ』については次回に持ち越しになりました。自由討論は多岐にわたりましたのでここでまとめるのは難しい。ただ、現在、世界全体が収奪構造に組み込まれているのではないかというところに収斂できそうです。すなわち収奪によって蓄積された「財」が環流に回されないということが世界的に見られるということです。続いて木下さんの「喫茶文化の記号学的解釈と風土性」について前回に続いた発表がありました。コーヒー、紅茶、緑茶の飲まれ方はそれぞれの文化によって異なります。トルコを中心に論じられました。(10月29日・記)

 

 

40回環流文明研究会は予定通り、9月28日(土)に行われました。以下のその概要を紹介します。

 

最初に、木下純平さんの「喫茶文化の記号学的解釈とその風土性:「文明と調和」に向けて」と題する発表がありました。ユーラシア大陸ならびに東南アジア島嶼部でどのように茶をたしなんでいるか、が紹介され、次いで喫茶文化を風土との関わり、あるいは社会的地位との関係から論じられました。議論は、茶を飲むという生理的欲求水準から「たしなむ」という芸術的宗教的次元に至る段階を考える必要があるのではないか、記号論的に論じるとすればその増殖性ゆえにさまざまな問題を引き起こしていることを論じたらどうか、世界の多様なたしなみ方を風土性との関わりから比較検討するのはどうか、など多方面に及びました。

 

副題に「文明と調和」とありました。これは、今月末に行われる比較文明学会大会での発表を意識したものですが、「調和」を論じるならば何と何が対立するのか、を明確にしないと論じられないのではないか、という疑問も提示されました。

 

論者(木下さん)は日本の茶道を念頭にこの副題を考えたのだろうと思います。だとすれば、日本の茶道がさまざまな「取り合わせ」のなかに見られる、矛盾のバランスを意識していたのだろうと思います。しかし発表では必ずしもそれが明示されませんでしたので説得力に欠けていたように思います。

 

今後、さらに検討を加えて学会では大きな成果を挙げるよう期待したいと思います。

 

次に、「収奪文明の極み-なぜアメリカは「貧困大国」となったのか」という発表が染谷によってなされました。堤未果さんというジャーナリストのアメリカルポの報告、つまり『ルポ貧困大国アメリカ』、『ルポ貧困大国アメリカⅡ』そして『(株)貧困大国アメリカ』の3部作から伺えるアメリカの現状についての発表です。

 

今回は、そのうちの『ルポ貧困大国アメリカ』と『貧困大国アメリカⅡ』の一部を紹介しました。肥満、国内難民、経済難民、医療にかかれない人々、貧困を余儀なくされている若者、世界のワーキングプアが巻き込まれている「民営化された戦争」などどれも凄まじい事例についてです。

 

これらを読むと、現代アメリカは植民地的状況にあることが明らかです。17世紀から20世紀前半まで世界の大半を覆ったあの苛酷な植民地支配と本当によく似ているのです。アメリカ人の99%が1%によって支配されているというのが堤さんの説明ですが、私は99%のみならず1%も含め、アメリカ人のほとんどすべてがカネに支配されていると考えています。ただ、無料で診察を行う医師団や牧師や医学生など良心的な人々が登場するのが救いです。

 

自由と幸福を求めて「新大陸」に立国し、その伝統のうえで国家を経営しているアメリカ人ですが、すでに19世紀後半、S.ミルが「アメリカ人はカネの亡者だ」と非難していました。それを読んだ福沢諭吉がアメリカ人について疑問を呈していますが、そのアメリカの伝統はますます強固になっているようです。今や、資本主義の極み、収奪文明の極みです。

 

なぜこのような国になってしまったのか、それはカネという魔物に取り憑かれたからでしょう。「自由」の名の下に。そこでは激烈な競争が展開しています。企業の合併が日常化しています。第三者から見れば、それは滑稽と見えます。当事者にとっては死活問題ですから、なおさら滑稽に見えるのです。しかし彼らのやっていることが、彼らだけの問題ではなく、世界を混乱させていることを考えると事態は深刻です。私たちはこの滑稽問題に立ち向かわなければなりません。次回ではさらに議論を尽くしていきたいと考えています。(2013101日・染谷記)

 

9月28日に行われる第40回環流文明研究会の発表要旨を「公開文書」に掲載しました。ご覧ください。堤 未果さんの3部作をもとに論じています。今のアメリカで見られるのはかつての残酷な植民地支配の姿です。植民地主義の亡霊が今、アメリカに生き返ったようです。アメリカの「1%」は同胞たちから収奪し、その凄まじさは衰えるどころか、ますます激化しています。もはや、アメリカは悪い模範でしかありません。しかしながら日本は、愚かなことに、そういうアメリカに追随しています。日本政府もメディアもTPPの加入を盛んに論じています。危険です。堤さんの本を読むと明日の日本が見えてきます。

 

次回の研究会は9月28日(土)午後1時から実践女子大学日野キャンパスの犬塚研究室で行います。現時点での発表予定は、テクノバの大場さん、立教大学の木下純平さん、そして染谷です。木下さんは「喫茶文化の記号学的解釈とその風土性:「文明と調和」に向けて」、染谷は「収奪文明の極み―なぜアメリカは「貧困大国」となったのか」です。

 

9月14日に予定していた次回の研究会は9月28日(土)に変更します。開始時刻に変更はありません。また、開催場所も変更ありません。取り急ぎ、まずはお知らせまで。(8月17日記)

 

暑い日が続いています。お変わりありませんか。

 

さて、次回の研究会は9月14日(土)午後1時から実践女子大学日野キャンパスの犬塚研究室で行います。テクノバの大場さんの発表に続き、広井良典『人口減少社会という希望―コミュニティ経済の生成と地球倫理』、平川克美『経済成長という病』、堤未果『ルポ貧困大国アメリカ』、『ルポ貧困大国アメリカⅡ』、『(株)貧困大国アメリカ』を取り上げて議論したいと考えております。

 

第39回 環流文明研究会は、予定通り、7月20日(土)午後1時から実践女子大学日野キャンパスの犬塚潤一郎研究室で行われました。以下にその概要を記しておきます。ただ、今回は議論が多岐にわたり、実に実り豊かな研究会となりましたが、私のメモに残っていないものも多く、残念に思っています。参加された皆さんから補足していただけると幸いです。

 

今回は私が提起したテーマに沿って自由に議論する機会としました。

 

私が提起したテーマとは、今、世界のあちこちで起こっている格差の問題です。格差は文明に付きものの本質的な悪弊ですが、それがなぜ拡大するのか、格差是正が叫ばれながらもなぜ解消しようとしないのか、なぜ解消できないのか、という課題が挙げられます。アメリカのウォールストリート占拠運動、日本の非正規労働問題、トルコ、エジプト、ブラジルそしてしばしばメディアで取り上げられる中国各地の住民蜂起などはいずれも格差問題です。格差は縮まるどころか広がっているのが現状です。

 

なぜ格差は広がるのか。議論ではカネ、資本が主役となって自由の名の下で世界の市場を駆け巡って利潤の追求に明け暮れているところに根本的原因があると指摘されました。

 

資本は自由に世界を駆け巡っています。「自由」は今日最も高い価値を置かれていますのでそれを否定することは誰にもできません。誰によっても否定されないゆえに「自由」は我がもの顔でまかり通ります。それは純粋リベラリズムとも「原理主義的リベラリズム」とも名づけることができそうです。そこでは「社会」への配慮は脇に追いやられます。

 

最高の価値として認められた「自由」の下でカネ、資本は勝手気ままにふるまっています。「自由」は人間のための自由ではなく、カネ、資本のための自由でしかなくなりました。カネ、資本が主役であり、人間は主役が演じるところを茫然と見守るだけの脇役あるいは端役あるいは観客でしかなくなりました。カネ、資本はもともと人間が生み出した文化の産物に過ぎません。しかしその産物が本来の主役であるべき人間を脇役、端役あるいは観客へと貶めたのです。見事な逆転劇です。

 

もちろんこのような逆転現象はカネ、資本に限りません。発達した技術に翻弄される人間の姿もその一つです。人間の技術はコンピューターを生み出し、それがカネ、資本の独走を手助けしています。それが現代ということになります。

 

カネ、資本の増殖を後押しする思想は飽くなき進歩思想、直線的前進主義の近代西洋思想です。もっとも、西洋にはそうした直線的進歩思想とは異なる環流思想もあります。ただ、そうした環流思想を脇に追いやり、直線的進歩思想がリーダーとなっている事実こそが問題です。なぜ進歩思想がリーダーになってしまったのでしょうか。私は文明そのものの性格にマッチするからだと思っています。つまり本質的に収奪性を持っている文明に適合的な思想がこの進歩思想なのだということです。そう見れば、なぜこの思想が世界化したのかが判ります。文明の主役である支配者にとって都合がよい思想なのです

 

ここで、次のように単純化することができそうです。文明の主役は支配者であり、それと結託したカネ、資本であり、それに親和的なイデオロギーつまり弱肉強食思想・進歩主義思想だということです。かくして政治的指導者は経済に引きずられ(政治献金)、「成長」を金科玉条とするイデオロギーに引き回されることになります。

 

文明は支配者、カネ、資本、イデオロギーのワンセットによって統治される機構だとすると、被支配者側から見れば多くの問題があることが判ります。文明を支配者側から見る肯定的文明観が一般的ですが、それでは文明を見たことになりません。文明を被支配者の側から見る見方がどうしても必要です。

 

逆転現象は今やあまりにも当たり前になってしまいましたのでそれを問題視することすらできないかのように見えます。「問題だ」と言ったところで「じゃあどうしたらいいの?」という無力感に捉われた答えしか返ってこないのが実情でしょう。実際、どうしようもないのかもしれません。しかしこのまま格差拡大を放置しておけば、遅かれ早かれ、カタストロフィが訪れるのではないかと思います。

 

カタストロフィは人類が、正確には、一部の人類が作った人災です。これに呑み込まれるのであれば、人類は「知恵あるヒト」という自画自賛の褒め言葉を捨て去らなければならないでしょう。知恵があるのであれば、そのカタストロフィを避けることができるはずです。もしそれができないのであれば、その根本的理由を考える必要があります。それは人間そのものの中にあるはずで、決して外にあるわけではない。それを知ればカタストロフィから逃れる目途が立つはずです。

 

もしできないのであれば、訪れたカタストロフィに見舞われ、痛い目に遭い、ようやく問題の解決に取り組むことになります。痛い目は、しかしながらそれを体験しなければ本当には判らないのではないかと思います。日本人は70年前、痛ましい悲惨な経験をしました。そして「二度と戦争はしない」と心に誓ったものでした。しかし戦争を経験した人はどんどん減っています。(私のような)戦後の悲惨を経験した人たちもだんだん少なくなっています。逆に、未経験者が増えています。悲惨を経験しない人たちは戦争の悲惨さを理解できません。頭で理解しても心から理解すること、納得することは難しいようです。

 

折しも憲法を改正(?)し、戦争をしやすくしようという動きが生まれています。「二度と戦争をしないと誓ったあの誓いは風化しようとしています。

 

感情、感性、気持ちに流され易い日本人にとってこうした動きには注意が必要です。感覚的表現に満ちているオノマトペが多い日本語、対者との上下関係あるいは親疎関係を表わす敬語抜きには発話できない日本語。日本語は感情、感性、気持ちを表現することに心を砕きます。それに妨げられて客観表現が難しくなります。日本語で客観表現をしようとするとぶっきらぼう、心のない表現と受け止められます。「~である」という日本語は多分、英語などのbe動詞を直訳したものかと思いますが、これを日常会話で使ったケースはないのではないかと思います。「吾輩は猫である」などと自己紹介したのは漱石の猫ぐらいでしょう。私たちの日常会話では「私は○○と申します」とか「僕は○○です」と謙譲表現か、丁寧語表現が普通です。日本語では謙った気分、優しい気分が大事です。

 

敬語表現は人間関係の潤滑油となります。勢い、丁寧さが前面に出てきます。それ自体、日本語の世界では問題ないのですが、外国人との交際では必要以上に気遣いをしているように見えるはずです。謙譲表現ともなると卑屈に見えるはずです。何で自己を主張しないんだろう、自己がないんじゃないのか、とさえ疑われてしまいます。

 

英語のように基本的に上下関係も親疎関係も気にしない言語では、話者の視点は(金谷武洋のいう)「神の視点」で、高所から自己も対者も見下ろすことができます。そうすることで客観表現が可能になります。それに対して日本語は「虫の視点」の言語であり、話者は自由に動き回れますが、高い位置から見下ろすことが難しくなります。勢い、感情表現に傾きます。

 

このような言語文化では痛い記憶を留めておくことは難しいのではないかと思います。“情に棹させば流され”ます。

 

日本語は、主観客観という言葉で説明するのではなく、「共観」という言葉で説明できないかというコメントがありました。面白い指摘でした。日本語は欧米語のように主語を立てなければ文章が成り立たない言語ではなく、したがって主語目的語という主客関係が重要ではないこと、また、同じ単語が主客間を自由に入れ替われることから(例えば生徒に向かって自分を「先生」と呼ぶ言い方に見られます)、「共」の関係で成り立つというのです。

 

カネという客体に振り回されている現生人類を救う道は、主客を厳格に区別する言語世界ではなく、主客の区別にこだわらない、「共観」の言語世界にあるのではないかと思いました。

 

議論は多岐にわたりましたが、取り急ぎ・・・。 (2013/07/24 染谷記)

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第38回 環流文明研究会は予定通り行われました。以下のその概要を報告します。

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第38回 環流文明研究会は予定通り6月29日(土)午後1時から実践女子大学日野キャンパスの犬塚研究室で行われました。最初に星野克美さんが「自然共生・社会共生の精神文化-工業文明崩壊後の未来文明構想のために-」と題する発表を行いました。資源枯渇等から工業文明の崩壊は目の前に迫っているが、その先の文明は自然との共生、社会的共生を可能にする文明に活路を見い出すしかないだろう。

 

そうした文明は「宗教的なもの」と科学と芸術を総合したものを根幹とする文明でなければならない。星野さんはそれを提示しました。自然共生と社会共生思想は世界の諸宗教に見い出すことができるはずだが、とりわけユダヤ教の中にそれがあることを具体的に指摘しました。

 

強調されたことは「根元的なもの」は様々な宗教によって様々な語り方で語られてきたが突き詰めていけば「同一」ではないかという指摘でした。表現が異なると違ったように見えてしまう。そのためにコミュニケーションが阻まれてしまうということかと思います。言語で表現されたものの内奥を理解しようとする態度が必要でしょう。とかく自民族中心主義的態度をとりがちな私たちはそれを越える努力が必要でしょう。それは自文化であれ他文化であれ、相対的に見る文化相対主義をとることを意味します。しかしながらそうした文化相対主義が不可知論に陥ってしまえば、それはそれで問題です。それを越える態度が必要になります。文化はそれぞれ違います。しかしその根底にあるものは違わないのではないか、それを求めようとする態度が必要です。それが今回の発表で強調されたと理解しました。

 

私は星野さんの発表のキーワードは「再び結びつける」という言葉にあると思いました。いうまでもなくこれは「宗教」という日本語の語源つまりreligareです。残念なことに,

「宗教」という訳語にこの「再び結びつける」という意味合いがすっぽりと抜けていたことです。Religionになぜ「宗教」という訳語を当ててしまったのでしょうか。

 

次に神出瑞穂さんが「陰陽思想と環流文明」と題する発表を行いました。前回の補足です。陰陽思想の対立性と相補性、消長と循環、欠乏・過剰と中庸、「時」の捉え方などに見られるバランス感覚は、とかく一方を強調する(一神教的)思考法に代わるべき思考法ではないかと思います。神出さんはそうした思考法を踏まえた「自律分散協調型陰陽五行文明」を構想しました。資源の枯渇が目の前に迫りつつある現在、こうした文明の構築は今から始める必要があり、実際、その先駆的例があることが報告されました。

 

次に染谷が「西洋文明に席巻されたアジアがアジア文明で自らを救えるか」と題する発表を行いました。19世紀後半以来、日本は文明開化の名のもとに西洋文明に席巻されました。それは今、他のアジア諸国も経験しています。世界は賞賛しました。中国の目覚ましい台頭にはむしろ恐怖を感じていますが、そうした賞賛は西洋文明が西洋文明を賞賛しているに他なりません。自画自賛です。そこではアジアの古来の文明は影に追いやられました。西洋文明のグローバリゼーションは進んでいます。それは一方で「発展」を実現しましたが、ウラを見れば環境破壊、資源枯渇、社会的収奪の激化であり、人類の行方は暗雲が立ち込めています。迫りくる危機を回避するためにアジアに古来からある文明を生かす必要があります。本発表ではその一例としてインドネシアのジャワに眠る大乗仏教のボロブドゥールに見られる環流思想を紹介しました。「隠された基壇」の160枚のレリーフの多くが施しの絵であり、上段の説話や仏伝図、そして中央の大ストゥ-パは生きとし生けるものの無機界(それは涅槃)への出口ではないか、つまり自然界の大循環を説いているのではないかという私の考えを紹介しました。他の生物と同じように人間はすべて無機界に帰ります。つまり空気になり、水になり、土になるのです。ですから「千の風になって」の歌詞内容の通りです。「土から生まれ、土に帰る」の通りです。

オノマトペアに満ちた感覚主義的な日本語の世界、論理よりも歌(和歌)でコミュニケーションを図ろうとする日本語の世界にも話が飛ぶ発表となりました。(2013630日 染谷記)

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第38回環流文明研究会で発表する私(染谷)の発表内容をこのサイトの「公開文書」で公開しました。「西洋文明に席巻されたアジアをアジア文明は救えるか」というタイトルです。ご批判をお願いします。(染谷記)

 

第38回 環流文明研究会は、予定通り、今週土曜日(6月29日)午後1時から実践女子大学日野キャンパスの犬塚研究室で行われます。発表者は星野克美さんと神出瑞穂さん、そして私(染谷)も若干発表します。

 

星野さんの発表内容はこのサイトの「公開文書」に先ほど掲載しましたのでご覧下さい。神出さんの発表は前回既に掲載しました。私の発表内容は明日公開します。

 

 

第37回 環流文明研究会は、予定通り、5月25日(土)午後1時から実践女子大学日野キャンパス犬塚研究室で開催されました。

1)会場提供・プレゼン環境設定では、実践女子大学:犬塚潤一郎氏には、いつもなが

  ら大変お世話になり感謝致します。

2)第1テーマ:「2052論評」は、大場紀章氏によって研究報告がされました。
  (ヨルゲン・ランダース、『2052:今後40年のグローバル予測』、日経BP社)


 ①本書は、1972年の『成長の限界』研究グループ一員のランダースによる
  独自のモデル&データによる、「最も可能性ある予測」と研究の成果である。


 ②都市化⇒人口増加率低下、CO2排出削減コスト⇒生産資本投資への減少圧力、
  新興国労働生産性向上⇒先進国に接近、エネルギー消費効率化・再生可能
  エネルギー増大などがモデルに導入・投映されている。


 ③予測結果として、21世紀前半には「成長の限界」はこないが、CO2排出は過
  大となりCO2濃度538ppm・大気温度2℃上昇・海面36cm上昇(2052年)、
  地球温暖化が危機的になり、環境対策コスト増加で可処分所得・消費増加率
  は低下する。資本主義・民主主義の合意形成・政策実施は後手に回る。


 ④ランダースの予測研究に関して参加メンバーによって様々な討議がなされた。
  エネルギー使用量変数を一元化するために、ミクロのエネルギー供給制約が
      捨象され、「成長の限界」が過小評価されているのではないか。
  地下水枯渇・河川水紛争による食糧危機(ライアル・ワトソン)、CO2急増
      による危機水準2℃接近(2020年:国連環境計画、2017年:IEA
      という地球温暖化・異常気象激化の直近事態が織り込まれていない。
  格差拡大・若者失業・金融資本暴走・財政危機など資本主義体制の欠陥が
      無視されている。(⇒「新たな成長の限界」)


3)第2テーマ:「陰陽思想と環流文明」は、神出瑞穂氏によって研究報告が
  されました。


 ①古代中国以降の陰陽思想形成の発展、陰陽思想・陰陽五行説の全容、易の体
  系・応用実践(占い・漢方・中医)など詳細な解説がなされた。
  (このMLでは詳細省略)


 ②陰陽論が、歴史盛衰・反覆運動を唱える西洋歴史学にも影響・導入され
  (トインビー)、脱西洋思想思考からも注目される(アンヌ・チャン)。


 ③陰陽思想を現代に再生する、「自律分散協調型陰陽五行文明」(非中央集権 
 ・域内経済自給自足)、「老荘型スマート邑」(自然生態系調和・人口抑制 
 ・食糧水生存担保)の構想が提示された。


 ④参加メンバーによって様々な討議がなされた。
  世界各地の先住民文化のシャーマニズムと陰陽論・易経の差異性・同一性に
      ついて、中国古代・中世・近世にわたる易学の体系化・熟成化が際
      立つ。


  陰陽論の「変化・循環・螺旋」「陰陽絡み合い運動ダイナミズム」「生成変
      容プロセス」などは、西洋ポストモダン思想にも共通・同質なもの
      であり、「環流思想」にも通じる。


  (報告・討議2時間では尽くしがたい大問題なので、今後も研究・討議が望
   まれる。特に、「陰陽論⇒環流思想⇒環流文明」)


以上、5月例会のまとめは、星野が担当しました。

第36回 環流文明研究会は、予定通り、4月20日(土)午後1時から法政大学国際日本学研究センターセミナー室で行われました。

 

今回は(財)エネルギー総合工学研究所の楠野貞夫参事と松井一秋理事に「ウラン資源長期需要予測」と「東日本大震災を踏まえた我が国のエネルギー戦略」と題する発表を頂きました。次いで星野克美氏の「日本・財政破綻の可能性仮説」が発表されました。

楠野氏によれば、ウラン資源は化石燃料と違い、基本的に枯渇の心配はないということでした。ただ、U-235を主役とする今世紀から、次の時代にはU-238が主役となり、その際には技術の発達やコストの問題などがあるとの指摘がありました。

松井氏によれば、福島第一原発事故で原発の技術への不信とそれを越える技術の模索をめぐり、如何に合意形成をしていくかが大事だという指 摘がなされました。楠野氏と松井氏の発表には共通して技術の問題が掲げられていました。

そこには、資本主義という経済原理が絡んできます。資本主義は経済成長なしには動かないという「宿命」をもっています。経済成長は経済の原理となっているだけでなく、政治や社会そして文化(思想や価値観)の原理ともなっています。つまり(文化・政治・経済・社会の総合としての)文明そのものを動かしている原理となっているのです。

そうした文明は今や全世界を包み込んでいます。70億を越える現生人類がこの文明に取り込まれ、そこから解放されない状態にあるということです。長い人類史のなかでもかつてなかった未曾有の体験を強いられていることになります。一見、繁栄しているかに見える現状のカゲで何が進んでいるのか、星野氏は日本は2016年に財政破綻するというシナリオを提示しました。それはギリシャやキプロスのそれとは比較にならない巨大なカタストロフィです。全世界に多大な影響を及ぼします。

星野氏はそうしたハードランディングの道とは別に縮小経済のソフトランディングの道も提示しました。果たして人類はその道を選ぶことができるでしょうか。国家レベルでは無理でしょう。だとすれば、ローカルレベルでそれが採用されるしかないということになりそうです。日本のあちこちでそれが採用されることが期待されます。(4月21日・染谷記)

 

今週の土曜日に行われる研究会で星野克美氏が発表する「日本の財政危機」のレジュメを「公開文書」として公開しました。「2013日本の財政危機」です。なお、ご質問があれば、「お問合せ」をお使いください。(4月16日・染谷記)

 

4月20日(土)に第36回 環流文明研究会を開催します。場所は法政大学国際日本学研究所セミナー室。発表者は  財団法人エネルギー総合工学研究所 の楠野氏と星野氏です。楠野氏は「ウラン埋蔵と原子力発電の長期予測」(仮題)、星野氏は「日本の財政危機」と題する発表を行います。どちらも極めて重要な課題ですね。多くの方々のご参加を呼び掛けます。委細については後日お知らせします。(3月23日記)

 

3月16日(土)午後1時から実践女子大学日野キャンパスの犬塚研究室で行われる第36回環流文明研究会で発表される星野克美さんのレジュメが届きましたので、「公開文書」に掲載しました。ご覧下さい。(3月5日記)

 

第35回 環流文明研究会は、予定通り、2月16日(土)午後1時から6時まで実践女子大学日野キャンパスの犬塚研究室で行われました。

最初に星野克美さんが、「資源・環境危機未来予測2」と題して、アメリカのエネルギー局(Department of Energy)、アメリカ軍部、イギリス産業界、石油研究所などから2015年に石油危機が訪れるという警告が出されていることが報告されました。また、シェールオイルの問題性についても触れ、さらにエネルギー不足に伴う日本の経常収支の赤字化が報告されました。詳しくは資料をご覧下さい(yahooMLでもgoogleのサイトにも掲載しています)。なお、日本の財政破綻については次回に回しました。

欧米ではさまざまな機関や識者から石油危機(減少と価格高騰)が叫ばれているにもかかわらずそれが一向に一般化しないのはなぜなのでしょうか。とくに資源のない日本では政府もメディアも流さず、平然としています。むしろシェールガスが日本のエネルギー問題を解決するような「楽観論」を掲載する始末です。「日本人は呑気」と言い放った私の恩師(ベルギー人司祭)の言葉を思い出します。

ついで、金子晋右さんが「寛政改革から学ぶ日本型環流経済社会の構想」で、現政権のアベノミックスに欠ける貧困救済、格差是正、セーフティネットの整備、少子化対策の問題を(それらがあった)寛政改革(1787年~1793年)と比較検討しました。この改革を実行させた思想(仁政思想)を活人剣思想に求め、さらにその根底に祭司王思想に求めています。

現代日本は相当に深刻なモラル(思想)の喪失という問題を抱えています。それは、現政権に明らかです。しかし現政権だけではありません。民主党政権を見ても、子供のいじめを見ても、教師の体罰問題を見ても、警察官や役人の不祥事を見ても相当に深刻だということがわかります。エコノミックアニマルという言葉はもうずいぶん昔に口にされ、もう口にされませんが、だからといって実態が改善したわけではありません。すでに常態化したから口にされないのでしょう。本当に深刻です。

活発に議論が交わされました。モラル(思想)の喪失は、モノ、カネが支配する現代文明の特徴だと考えます。そこでは宗教は脇に追いやられます。人間の情愛も薄くなります。「精神収奪」が激化し、それはますます世界化しています。異常な事態を迎えているのですが、それを異常と感じない人間はまさに精神を収奪された人間であり、魂を失った人間にほかなりません。それはもう人間の名に値しない、ただ生きているだけの動物に過ぎないのではないでしょうか。

現代文明は自然から収奪し、社会から収奪し、さらに精神を収奪することを進める(勧める)文明です。自然を破壊し、社会を破壊し、人間を破壊する文明です。人類はこうした文明を過去のものとし、新しい文明で生きることを考えなければなりません。ただ、それはもはや文明と呼ぶべきではなく、別の言葉で表現しなければならないのですがまだ適切な言葉がありません。「文化」でもなく、「文明」でもない、「文?」ですね。(2012年2月17日)

 

相変わらず寒い日が続いておりますが、ご機嫌いかがですか。

さて、次回の研究会は、予定通り、2月16日(土)午後1時から実践女子大学日野キャンパスの犬塚研究室で行います。万障お繰り合わせのうえご出席ください。

発表者は星野克美さんと金子晋右さんです。発表概要は「公開文書」で公開しておりますので各自適宜プリントアウトして持参していただけると幸いです。

なお、3月の例会は3月16日(土)午後1時から同じく実践女子大学日野キャンパスの犬塚研究室で行う予定です。発表者は未定です。

先日、第2弾に関する私の提案に対する加藤久典さんから送られてきたコメントを送信しました。ちょっと分かりにくかったかもしれないと思い、補足します。

 

ご参考までに、加藤さんからのコメントを以下に張り付けておきます(*****以下の文章です)。

 

最初のジェパラ(ジャワ島中部、ジャワ海に面している漁村)の原発推進計画に対する反対運動が挙げられていますが、村民が反対する理由は「私たちはもう十分に生活できるのだから原発なんか要らない」というものです。そして「原発はジャカルタ(首都)の人たちのもの。私たちには何のかかわりもない」と言いきっています。

私(染谷)は加藤さんに質問しました。彼らは「もう十分」といっているけど電気はどう?、トランスポーテーションはどう?と。答えは、電気は通じているが暗いし、自家用車もないということでした。しかし「十分」というのです。加藤さんが「ローカルな文明(英知)」と呼んでいるその中身です。

私たちから見れば、決して「十分」とは言えないでしょう。しかし彼らは「十分」というのです。その違いは価値観の相違に起因します。ただ、どちらが「正しい」価値観かはにわかには判断できません。文化相対主義の観点からすれば、どちらにも軍配を挙げなければならないでしょう。

ただ、問題は、現代では文明の側に立つ人のほうが多いものですから、「暗い電気で満足している人のほうがおかしい」という価値観の持ち主が多数となります。正当化されます。

問題は、それでこれから立ち行けるのか、ということですね。「もう十分」という「文明的英知」を再考するよう、加藤さんは促しているのです。

後段については後日送信します。

 

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ご存じのように、ジェパラの反原発運動を通してはローカルな文明の「英知」を少し掘り下げることができました。その「英知」は、今まで「未開」「途上国」というレッテルを張られ顧みられないものでした。(植民地支配の遺産でしょう)しかし、その「英知」こそが「発展した文明社会」に生きる人類がもう一度顧みるべき価値だと私は感じています。日本の反原発運動に欠けているのは、こういった「英知に基づく価値」に対する取り組みの欠如のような気がします。

「自由」という思想についても、最近よく考えます。これはジョグジャカルタのスルタンを例にとってリサーチしたものですが、西洋的な自由主義からすると自由を否定するようなスルタン=知事というシステムです。しかし、ジョグジャカルタに受け継がれている「中庸」の思想は、現地の人々の生き方そのものに影響を与える核となる価値でもあります。これを、「非民主的=非自由」として切り捨ててしまっていいのか?という問いを私たちは忘れてはならないと思うのです。しかし、先生がおっしゃるように「自由」を否定することはできません。しかし、それを乗り越える力がきっと人間にはあるはずです。アウン・サン・スーチー女史の思想も一つのヒントになるような気がします。

還流の思想とは、柔軟な流れを私は連想します。柔軟というのは、オリジナルなものを現実に合わせて変換させていくことです。(構造主義的にと言ってもいいかもしれません)宗教はその重要な例だと思います。今年初めにジャカルタでリサーチしたイスラムグループは、イスラム教で禁じられている現生利益を求める祈りをアラー以外の聖人に捧げていました。つまり原理主義の否定です。原理主義を乗り越えるには、この柔軟さが必要なのかもしれません。そんなことを思いました。

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