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第27回 環流文明研究会 報告

2012/05/20 8:06 に Jun Inutsuka が投稿

第27回 環流文明研究会は、予定通り、2012519日(土)午後1時から実践女子大学日野キャンパスで行われました。JRの三鷹-立川間の線路工事のために帰途に若干不安があることで出席者は、(敬称略)木下、星野、犬塚、末武、染谷の5名でした。

今回は、「静かに激動するミャンマー(ビルマ)の今」と題し、

(1)  経済開放と民主化が進む現在のミャンマーにおける民衆の生活と政治について

(2)  仏教と精霊信仰を背景にした人々の道徳観について

(3)  多数者である仏教徒が少数者である他の宗教をどう見ているか

(4)  それらからミャンマーはどういう文明の国なのか

という点を考える、というものでした。

たくさんの写真を駆使した発表は、映像で現在のミャンマーがどういう状態にあるのか、非常に明確に示すものでした。加えて人々の宗教生活や経済生活に関する具体的で細かい説明がありました。その印象をひとことで表せば、ミャンマーは「貧しくない」ということです。確かに、GDPはアセアンの中でもアフガニスタンやネパールと同程度で最低に位置づけられていますが、町を行く人々の姿、子供たちの姿を見る限り、「貧しさ」は感じられません。もちろん「豊か」ということもできませんが。ただ、今回は、ヤンゴン、バガン、マンダレーという主要都市部に限られ、特に許可がないと入れない地域、一切立ち入りが禁止されている地域は、当然ながら、除外されていますので、そうした地域の状況は判りません。察するに相当の「貧しさ」が見られるでしょう。

現在、西側諸国による制裁解除、資本の流入、民主化の動きなどが急速に進んでいます。2007年の暴動を鎮圧した軍事政権ですので、彼らにとって好ましくない状況になれば、現在の「軟化」は再び硬直する可能性がないではないでしょうが、国際情勢を考えるとそれも難しいでしょう。

おそらくベトナムやインドネシアなどで展開している外資導入による「経済発展」がミャンマーでも加速するのではないかと思われます。その結果、ミャンマーの「貧しくない」状況が資本主義経済に取り込まれて「貧しい」状況に変化するでしょう。

それは日本を見れば、中国を見れば、インドネシアを見れば、よくわかるはずです。

コメントの中に、農地が広がる農業中心のミャンマー、食糧が豊かなミャンマーは、化石燃料や鉱物資源の枯渇が予測される現在、却って現状を維持することで「貧しくない」状態を維持できるし、食料問題で苦悩する他国とは違う道を歩める可能性が高いのではないかというコメントがありました。

教えられるところが大きい、非常に興味深いコメントです。この点についてミャンマーの人々と議論できたらよいのではないかと思います。現在、日本には4000人ほどのビルマ人亡命者がいるとのことですので、それは可能性でしょう。

おそらくミャンマー政府も人々も「近代化」=「経済発展」=幸福という、旧来の常識的な等式に捉われてタイ、インドネシア、ベトナムといった国々と同じ路線を歩もうとするでしょう。それゆえ、この指摘は重要ではないかと思われます。

ただ、「産業化」によって一部階層(中産階級)の人々が富裕化し、それが人々の意識変革を促したというインドネシアの事例(あるいは北アフリカの事例)も考えると、「産業化」を経ないことで果たして人々の意識改革が可能かどうか、という点が問題として残ります。

「まとめ」の最後で、「欲望のコントロールという点においてビルマの仏教が制御を掛けることができるかどうか、という点が、収奪文明から環流文明への転換のための手掛かり」となるのではないかと木下さんは締め括りました。この点は、ミャンマーと同じく仏教を強固な基盤にしているブータンがどういう状況に直面しているのか、その事例が参考になるでしょう。「鎖国的」状況にあった両国が諸外国の文化に曝されて意識に変化を来すことは間違いないと思われます。

「環流文明」の観点からすると、徳を積むことが推奨され、実行されていることが注目されます。しかし「パゴダの建立」や「得度式を主催する」や「僧院を建立する」などが高い徳とされ、「俗人に対し物やサーヴィスを提供する」のが最も低い徳とされるという「基準」は、極端な言い方をすれば、「仏教による収奪」といえなくもないのではないかと思われます。

釈迦は来世の幸福を説いていなかったと思います。徳を積めば来世で幸福になるとか、幸せな生まれ変わりができると説くことで自らを維持しようとする仏教に問題はないでしょうか。これは収奪文明のイデオロギーではないでしょうか。

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