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フクシマ原発事故に現代文明の忌わしいカゲを見たー10月の研究会の御案内ー

2011/09/18 16:38 に 染谷臣道 が投稿
10月の研究会は、広く多くの方々のご参加を歓迎しています。今回は、比較文明学会ならびに東洋大学国際共生社会研究センターとの共催です。危険に満ちた現代文明を越えた未来の文明を夢見る皆さんのご参加、大歓迎です。

 

「現代文明の彼方を思う-フクシマ原発事故を手掛かりに-」

 

日時:1022日(土)13時~1710

場所:東洋大学白山第2キャンパスB棟 B306教室(100名教室)

112-0001東京都文京区白山2-36-5 TEL:03-5844-2400(代表)

建物図:http://www.toyo.ac.jp/campus/hakusan2_j.html

■都営地下鉄三田線白山駅 A1出口より徒歩10
■東京メトロ南北線本駒込駅 1番出口より徒歩15

交通案内図:http://www.toyo.ac.jp/access/hakusan2_j.html

 

進め方:趣旨説明・・・1300分~1320

第1発表・・・1320分~1400分(質疑応答を含む)

    第2発表・・・1400分~1440分(質疑応答を含む)

    コーヒーブレイク・・・1440分~1450

    第3発表・・・1450分~1530分(質疑応答を含む)

    第4発表・・・1530分~1610分(質疑応答を含む)

    全体討論・・・1610分~1710

 

1.この合同研究会の趣旨について(1300分~1320分)

「現代文明の彼方を思う-フクシマ原発事故で考える-」

           司会  染谷臣道 (比較文明学会会長・静岡大学名誉教授)

 

 東日本大震災から半年が過ぎた。地震と津波による被災からの復旧は遅々として進まないが、それでも多大な費用と人々の努力でそう遠くない将来には達成されるだろう。しかしフクシマ原発事故の被害は収束するどころか、ますます拡大しているのである。原発事故を起こした原発周辺はおろか、南西方向に70キロも離れた山林にも放射性物資は飛散し、山の幸は廃棄処分されているのである。それも、これから数年あるいは数十年にも及ぶという。ヒロシマ・ナガサキを経験した日本人はすでに原子力の恐るべき「威力」を身にしみて知っているが、今改めてそれを思い知らされている。しかしフクシマは、ヒロシマ、ナガサキのように、他国がもたらした戦争の結果ではない。日本人(とりわけ首都圏に住む人々)自身が享受してきた文明的恩恵の結果なのである。

多大なエネルギーを使用せずに成り立たない文明も21世紀の現代文明で極点に達した感がある。18世紀以来の化石燃料への依存は、すでに久しく警鐘が鳴らされ懸念されてきた枯渇という制約、とりわけ大量に消費する先進工業国(とくに日本)が自国に資源を持たないという制約、さらに気候変動を結果しているがゆえに使用できないという制約から、原子力という危険物を使う方向に進んだ現代文明は、いよいよ限界を迎えつつあるようだ。それは誰の目にも明らかとなった。原発は核爆発の平和利用だ、核兵器とは違うと喧伝されてきた。しかしながら、ウランがもつ爆発的なエネルギーを使うという点で変わりはない。平和利用とはいえ、日本は核兵器を54基も装着した国家といってもおかしくはない。フクシマを経験した今、私たちはそうした文明から脱却しなければならないのではないだろうか。

しかし脱化石燃料、脱原発でエネルギーは確保できるのだろうか。文明は維持できるのだろうか。少なくとも、今日のように多量のエネルギーを消費する文明は不可能ではないか。それでは、どのような文明が可能なのだろうか。この研究会では、そうした将来の文明を構想する。

 

2.「ポスト現代文明の構想─旧世紀の遺物アメリカン・ウェイ・オブ・ライフからの脱

却─」(1320分~1400分、質疑応答を含む)

金子晋右 (東京工業大学世界文明センターフェロー、横浜市立大学・

城西大学非常勤講師)
 二〇世紀現代文明は、物質的側面としては、石油と自家用車を中心とした経済社会であった。一台の重量が約一トンもある自動車には、金属やプラスチックなど、大量の諸資源が用いられている。つまり我々は、諸資源を大量に浪費してきたのである。
 こうした自家用車を中心に据えた生活様式は、アメリカン・ウェイ・オブ・ライフと呼ばれる。このアメリカン・ウェイ・オブ・ライフは、偶然の産物で生まれたものではない。一九三九年のニューヨーク万博にて、当時拡大していた共産主義やファシズムといった全体主義に対抗し、アメリカ的自由主義(個人主義)と資本主義(私的所有権の不可侵)を守るべく、新たに構想されたものであった。
 冷戦期になると米国は、ソ連に対する優位を示すものとしてアメリカン・ウェイ・オブ・ライフを位置付け、核兵器と同等の重要性を持つイデオロギー兵器として戦略的に利用した。すなわち、米国型経済体制を受け入れれば、誰もが自家用車を保有し、物質的に豊かな生活を享受できるとの幻想を、振りまいたのである。その結果、米国に留学した各国のエリート層や富裕層、さらにはハリウッド映画を通して全世界の若者達が、アメリカン・ウェイ・オブ・ライフに憧れ、模倣するようになった。我が国日本も、その一国である。
 既に多くの研究者が指摘しているように、ピーク・オイルは目前である。よって我々は、脱石油社会を構築しなければならない。加えて、三・一一フクシマ原発事故の結果、電力に関しても、今までのような大量消費時代が終焉したことは明らかである。つまり、ガソリン自動車から電気自動車に転換すればそれですむ、というわけではないのである。
 よって我々は、自家用車を社会の中心に据えたアメリカン・ウェイ・オブ・ライフそのものを見直し、省エネ・省資源・低環境負荷の新たな社会、ポスト現代文明を構想しなければならない。本報告では、その構想と、それを実現するための具体策を提示したい。

 

3.「エネルギー危機とエココミュニティ~脱原発・自然エネルギー移行の文明的課題~」

星野克美 (多摩大学名誉教授)

 

  原発の建設・運営・保守・事故処理の総費用は高額で、諸エネルギー対比でも優位性をもたない。

  自然エネルギーの「エネルギー収支」は低く、電力費用や電力価格は石油・ガス・石炭より高くならざるをえない。

  自然エネルギー導入には、CO2排出量削減や原発リスクなどの「社会的費用負担」の国家・地域、産業・市民の間の合意形成が不可欠である。

  2010年代のピークオイル、2020年代中頃のピークガス・ピークコール・ピークウランを想定すると、長期的には世界的なエネルギー危機が不可避となる可能性が高い。

  石油素材樹脂・レアメタル・レアアースの希少化や、鉛・銅枯渇(2020年代中頃以降)などを想定すると、自然エネルギー装置の新規増産や更新投資のために必要な諸資源の調達が困難となり、自然エネルギーの恒久的な利用が保証されるとはいいがたい。

  エネルギー諸資源の希少化や、エネルギー装置の生産に必要な諸資源(=諸金属資源、諸エネルギー資源)の希少化によって、2020年代以降は「経済成長の限界」や「エネルギー増産の限界」が顕在化し、工業文明の基盤が危うくなることが推測される。

  地域生態系・地域資源条件に対応する地域分散型・地産地消型エネルギー体系や、低エネルギー・低工業生産のライフスタイル・ワークスタイルを前提とする、エネルギー・食糧自給型で地産地消型生活・産業構造を組み込む、「エコタウン」・「エコビレッジ」を構築することが文明的課題になるであろう。

 

4.「エネルギー人口論と国際共生社会」

池田誠(東洋大学国際地域学部教授、社会システム・情報社会科学)

 

 人類を支えるエネルギーには、農林業に代表されるようなバイオマス系、石炭・石油・天然ガスなどの化石燃料系、水力・風力・太陽光・地熱などの自然再生可能系と、原子力発電の4つがある。これらのエネルギーは食料の生産や加工・貯蔵・運搬などの複雑な産業連関を通じて、現代の70億人を 超える人類を養っている。このような人口とエネルギーの関係を簡略計算したものがエネルギー人口論と呼ばれる推計方法である。人類史では西暦 1700年以降にこれらの分岐が始まったわずか300年の変化であり、日本では明治維新後わずか140年程度の変化である。脱原発を考える際に、ピークオイル後の世界を前提に化石燃料系の枯渇と、バイオマス系と自然再生可能系だけで可能な人口と社会の姿を考えて議論しておくことは思考実験 としても重要なことであるといえよう。

 

5.「芸術家の洞察力」

                       高橋誠一郎 (東海大学教授)

 

 『坂の上の雲』の第三巻において東京裁判におけるインド代表の判事パル氏のアメリカ批判を引用しつつ、「白人国家の都市におとすことはためらわれたであろう」と広島と長崎への原爆投下を厳しく批判していた作家の司馬遼太郎は、一九八六年のチェルノブィリ原発事故の後では「この事件は大気というものは地球を漂流していて、人類は一つである、一つの大気を共有している。さらにいえばその生命は他の生物と同様、もろいものだという思想を全世界に広く与えたと思います」と語って自然環境への認識の深化を求めていた(「樹木と人」『十六の話』)。

 司馬の『坂の上の雲』を高く評価していた映画監督の黒澤明は、ビキニの水爆実験で被爆した「第五福竜丸」事件の後では、ドストエフスキーの長編小説『白痴』を強く意識しながら『生きものの記録』を撮って、敵を抹殺するために作られた核兵器の危険性を強く訴え、一九九〇年に公開されたオムニバス形式の映画『夢』の第六話「赤富士」では、発電所にある六つの原子炉が次から次へと爆発を起すという光景を描いて、「絶対に安全だ」とされてきた原発の危険性を浮き彫りにするとともに、第八話では「水車のある村」の美しさをも見事に映像化していた。

 本発表では作家・司馬遼太郎や映画監督黒澤の洞察力の深さをとおして、「自然と調和できる」エネルギーの必要性を考察したい。

 

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