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無題

2012/07/21 20:33 に 染谷臣道 が投稿

第29回 環流文明研究会報告

 今回の環流文明研究会は、法政大学国際日本研究センターのセミナー室で行われました。この会場は初めてでしたので、道に迷い、市ヶ谷駅からのアクセスにちょっと時間が掛りましたが、何とか予定通り開くことができました。出席者は、(敬称略)鈴村、神出、小関、木下、染谷の5名でした。仕事の関係あるいは体調の問題で出席できなかった方が何人もいました関係で出席者が少なかったのですが、鈴村さんと神出さんの発表は非常に面白く、議論は尽きませんでした。次回以降にも継続していくべき課題を投げ掛けられた次第です。

 

鈴村さんは「説明責任と危機管理の政治学」と題し、スペイン列車爆破事件におけるサパテーロ政権の成功例とアスナール政権の失敗例、また、エルベ川洪水におけるシュレーダー政権の成功例とインド洋津波被害におけるスェーデン人観光客の被害をめぐる政府の失敗例など具体例を挙げて政治における危機管理と説明責任を論じました。

何が起こるか判らないのはいつの時代も変わらないのですが、テクノロジーの発達でそれらが可視化されている点では過去とはずいぶん違います。それだけにすべての国の政権は常に危機管理と説明責任が問われます。震災と原発事故などの問題を抱えている日本の政権は大きな過誤を犯した失敗例に当たります。原発事故に人々の目を集めさせ、東電に責任を押し付け、政府の責任を回避しようとしている、経産省の巧みさに驚かされます。

 

鈴村さんの話を聞いてこのことを考えていました。たまたま昨晩はNHKでフクシマ原発事故がなぜあれほどの事故になってしまったのか、2号機のメルトダウンを止めることができなかったのはなぜか、をめぐる詳しい報道がありました。起こる可能性が高かった大地震と津波を無視して建てていた政府と東電の危機管理の弱さ、そして説明できない説明責任の欠如に今さらながら驚きます。その点で、原子力の怖さを知っているがゆえの、徹底したアメリカの原発管理も印象的でした。日本はやはり「「虫の視点」の言語文化が底流を流れ、「神の視点」の言語文化が板に着いていないと思った次第です。

また、デンマークの新聞が掲載したムハンマドの風刺画事件は、最後には国連を巻き込んだ国際問題になりましたが、当時の首相であったラムスセンはのちにNATOの事務総長になりましたので、彼の危機管理と説明責任の問題はうやむやになった感があります。しかし宗教はセンシティブな問題を引き起こすことを改めてヨーロッパ世界に知らしめたという意味で大きな事件だったと思います。ちなみに多宗教が混在するマレーシアやインドネシアには「宗教について議論してはならない」という掟があります。過去に何度も事件を経験してきた両国ならではの知恵でしょう。十字軍以来の確執の伝統をもつヨーロッパはそれをよく知っているはずですが、時としてあのような事件がボッと出てきます。トルコのEU加盟はその試金石になるでしょう。

「アラブの春」と「ウォール街占拠運動」についても論じられました。両者はソーシャル・ネットワークが大きな役割を果たした点で共通します。そして貧困が底流にあることでも共通します。鈴村さんは「拳を突き上げる意匠」が共通してつかわれているところに注目していました。面白いですね。今、東京では、毎週金曜日、首相官邸に向かって脱原発を求める運動が繰り広げられていますが、そこに「拳を突き上げる意匠」はあるのでしょうか。管見の限りでは見当たりませんが、もしそうであれば、「アラブの春」と「ウォール街占拠運動」とは異質なのでしょうか。

「アラブの春」は、長年にわたる抑圧への抵抗運動でした。なぜ独裁は長年にわたったのか、についてはイスラエルを守る欧米諸国の思惑、石油消費国の思惑そして国民の思惑が絡んだからと鈴村さんは分析しました。「アラブの春」にはそれを跳ね返すだけの力がありましたが、「ウォール街占拠運動」にはそれほどの力がなかったように思いますが、どうでしょうか。また、首相官邸への抗議運動も果たして大きな力になるのでしょうか。それはソーシャル・ネットワークの力の問題よりも、原発の意味をどれほどに理解するか、に掛っていると思います。それは日本の産業をどう見るか、にもろに関わってきますので、よほどの覚悟がないと腰砕けになるのではないかと思います。

 

議論は多岐に及びました。まだ尽きません。次回以降に延々と続けていきたいと思います。

 

「「都市農業」の可能性について」と題する神出さんの発表も興味尽きない課題提供でした。残念なことに、時間が足りなくて途中で中断せざるを得なかったので、この問題も次回以降に引き継いでいきたいと思います。

発表では、ソ連の崩壊とアメリカの圧力下で追い込まれたとはいえ、キューバがとった都市農業で70%に達した食糧自給率が紹介されました。また、サンフランシスコ、インド、バングラディシュ、ネパール、香港、シンガポール、モスクワあるいはまた、オランダ、ドイツ、デンマーク、スェーデンなどのハイテクを利用した都市農業が紹介され、さらに今後の日本に育つ市民農園型、ハイテク装置農業型、総合地域開発型が紹介されました。

工業立国を目指してきた日本は著しく低い食料自給率のままに推移してきました。お金さえ払えば食料は調達できると考えている日本は危ない橋を渡っていると思います。神出さんが冒頭で紹介した、世界の土壌の4分の1が著しく劣化していること(とくに南北アメリカ、ヨーロッパ、地中海沿岸部、アジアが酷い)、止まらない人口爆発などから高まる食糧生産のニーズを考えると、日本のあり方は非常に危険といわねばなりません。

そういう日本には減反政策もあり、休耕田がたくさんあります。日本は1億2千万の人口の口を確実に満たすことができるような方向をめざさなければなりません。都市農業はその観点からも模索されるべきでしょう。

神出さんの話を聞き、昭和20年代の東京にはまだあちこちで農業があったことを思い出していました。もってきた野菜と引き換えに人糞を「肥え桶」(と言っていたと思います)に汲み取って運んで行く農家の姿がありました。人糞の貯蔵池(「肥溜め」と言っていました)はあちこちにありました。当時は「環流文明」の農業だったのです。思えば、今から半世紀ちょっと前のことです。

今の東京で「都市農業」を行うとすれば、当然ながら、半世紀前のそれというわけにはいかないでしょう。神出さんが紹介した「市民農園型」や「ハイテク装置農業型」あるいは「総合地域開発型」ということになるでしょう。しかし私が住んでいる静岡の地方都市を見ると、従来のような農業でまだ十分ではないかと思います。ただ、問題は高齢化です。若い人が求められています。

いずれにせよ、世界の「都市農業」にもっと目を向け、日本の農業を再興する必要があります。大地に密着した、大地に親しむ「環流文明」からすれば当然のことでしょう。

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