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無題

2013/02/01 3:46 に Jun Inutsuka が投稿
先日、第2弾に関する私の提案に対する加藤久典さんから送られてきたコメントを送信しました。ちょっと分かりにくかったかもしれないと思い、補足します。
 
ご参考までに、加藤さんからのコメントを以下に張り付けておきます(*****以下の文章です)。
 
最初のジェパラ(ジャワ島中部、ジャワ海に面している漁村)の原発推進計画に対する反対運動が挙げられていますが、村民が反対する理由は「私たちはもう十分に生活できるのだから原発なんか要らない」というものです。そして「原発はジャカルタ(首都)の人たちのもの。私たちには何のかかわりもない」と言いきっています。
私(染谷)は加藤さんに質問しました。彼らは「もう十分」といっているけど電気はどう?、トランスポーテーションはどう?と。答えは、電気は通じているが暗いし、自家用車もないということでした。しかし「十分」というのです。加藤さんが「ローカルな文明(英知)」と呼んでいるその中身です。
私たちから見れば、決して「十分」とは言えないでしょう。しかし彼らは「十分」というのです。その違いは価値観の相違に起因します。ただ、どちらが「正しい」価値観かはにわかには判断できません。文化相対主義の観点からすれば、どちらにも軍配を挙げなければならないでしょう。
ただ、問題は、現代では文明の側に立つ人のほうが多いものですから、「暗い電気で満足している人のほうがおかしい」という価値観の持ち主が多数となります。正当化されます。
問題は、それでこれから立ち行けるのか、ということですね。「もう十分」という「文明的英知」を再考するよう、加藤さんは促しているのです。
後段については後日送信します。
 
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ご存じのように、ジェパラの反原発運動を通してはローカルな文明の「英知」を少し掘り下げることができました。その「英知」は、今まで「未開」「途上国」というレッテルを張られ顧みられないものでした。(植民地支配の遺産でしょう)しかし、その「英知」こそが「発展した”文明社会”」に生きる人類がもう一度顧みるべき価値だと私は感じています。日本の反原発運動に欠けているのは、こういった「英知に基づく価値」に対する取り組みの欠如のような気がします。

「自由」という思想についても、最近よく考えます。これはジョグジャカルタのスルタンを例にとってリサーチしたものですが、西洋的な自由主義からすると自由を否定するようなスルタン=知事というシステムです。しかし、ジョグジャカルタに受け継がれている「中庸」の思想は、現地の人々の生き方そのものに影響を与える核となる価値でもあります。これを、「非民主的=非自由」として切り捨ててしまっていいのか?という問いを私たちは忘れてはならないと思うのです。しかし、先生がおっしゃるように「自由」を否定することはできません。しかし、それを乗り越える力がきっと人間にはあるはずです。アウン・サン・スーチー女史の思想も一つのヒントになるような気がします。

還流の思想とは、柔軟な流れを私は連想します。柔軟というのは、オリジナルなものを現実に合わせて変換させていくことです。(構造主義的にと言ってもいいかもしれません)宗教はその重要な例だと思います。今年初めにジャカルタでリサーチしたイスラムグループは、イスラム教で禁じられている現生利益を求める祈りをアラー以外の聖人に捧げていました。つまり原理主義の否定です。原理主義を乗り越えるには、この柔軟さが必要なのかもしれません。そんなことを思いました。
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