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online討議

定例研究会と平行して、web上でも討議を継続します。

木下さんとのやりとり

2011/10/26 17:23 に 染谷臣道 が投稿

染谷からの補足

先日の議論は先進国にとっては重要な問題であっても途上国の人々にとってはそれどころではない、という指摘はその通りです。

しかし私たちが議論していることは、直線的に進むという「発展主義」的文明がもたらしている地球的規模の問題です。ユダヤ・キリスト教的歴史観が根底にあります。その歴史観には終末がありますね。しかもその終末は信じる者、善行を積んだ者だけが救われるというものですね。

しかし人類の歴史がそれに沿う必要はないですね。それから自由になって別の歴史観、とくに虐げられてきた人々(途上国の人々だけではありませんが)も救われるような歴史観を構築する必要があるのではないかと思います。どうでしょうか?(10月25日)

 

木下さんからの返答

「収奪文明」が現在も存在し続け、新たに台頭し、世界各地の国で収奪し続けていることは、アジア、中南米やアフリカなどの国々をめぐった際に、実際に目の当たりにし、どうにか解消できないものかと現地の人々と話をするたびに考えてきました。

 

そして、それらの国々には援助や資本投下があり、物質的に豊かになりつつあるように見える部分もあり、それがその地で暮らす人々にとって憧れにもなっている面もあるように思います。

 

また、「発展主義」的文明については、悪い面といい面を持ち合わせているように思います。悪い面は、すでに経済的に豊かな国ですら、将来もさらに発展し続けなければいけないという焦りとなり、国力の維持と増大をめざすため収奪の方向に動かざるを得ないという点にあるかとおもいます。しかし、その反面で、人々に将来はよくなるかもしれないという希望という幻想も与えている面もあるかと思います。

 

この「発展主義」的文明観は直線的に進むユダヤ・キリスト教的歴史観からだけなるのではなく、人間がそもそも持っている将来への期待のようなものからも作り出され、受容されたのではないかと思います。そのため、日本では終末に向かうという観念もなく、ただ漠然と経済は発展し続けるものだと思い続けているように思われます。

 

 

将来的には、収奪文明から脱することは当然としながらも、現状の世界をつなぐ経済システムは機能させつつ、ゆっくりでも経済的に発展できるような道はないものかと思います。そして、実現するにはまだまだ時間がかかると思いますが、過去だけでなく現在も虐げられている人々が救われる社会、歴史観を構築するということに賛同いたします。(10月25日)
 
染谷の回答

私がまだ中学生の頃だったと思うけど、ever onward!という言葉を聞いて「いい言葉だな」と思ったものでした。この言葉は現代文明の性格をよく表わしていると思います。しかし、古今東西の文明でこういう言葉が使われていたでしょうか。多分、使われたことはないでしょう。

 

従って「人間がそもそも持っている将来への期待」というのも疑問ですね。昔の人々は「常に前へ、将来に向かって」といった考え方を持っていたかどうか。確かに、親が子供の成長を願い、やがて社会に貢献できる大人になってほしいという願いはあったでしょう。しかしそれは「常に前へ」という進歩主義からではなかったと思います。親のようになることを期待する考え方がその裏にあったと思います。ですから親を越える、親たちが作った社会を越える社会を作るという考えがあったとは思えません。

 

そうした社会は、私たちの価値観から見れば「停滞的」に見えます。そこには「進歩」や「発展」がない、と見え、否定されますね。しかしもしそういう社会の人たちから見れば、私たちは「何でそんなに前へ前へと進もうとするの?落ち着いて周りの自然を味わい、人生を楽しむなんてできないんじゃない?疲れない?今生きられるならそれで十分とは考えないの?何でもっともっとというの?」と訊かれるでしょう。

 

「進歩」「発展」「成長」を良しとする価値観は近代文明がもっている価値観でしょう。それが今や全世界の人類を捉えています。今の日本人は(といっても大都会の人です。田舎に行くとそうでないことが判ります)いつの間にか、エスカレーターを歩くようになってしまいました。そのため、(関東の場合)右半分を開けるので左側は長蛇の列を作っていますね。インドネシアの人から見れば実に奇妙な風景に見えるでしょう(私はインドネシアに長く住んでいましたのでしばしばインドネシアと日本を比較します)。Ever onwardの極みですね。

 

もちろんそうした文明にも良さがあります。しかし悪弊も考えなければならないですね。その悪弊がますます大きくなっているのではないか、そのために人々は苦しんでいるのではないかと思います。現代文明は(途上国だけでなく)先進国の人々をもたくさん苦しめています。先進国が抱える問題の一つに急増する精神疾患がありますが、これも文明のなせる業といわざるを得ません。(10月26日)

 

先日の合同研究会に参加した木下さんから

2011/10/26 17:12 に 染谷臣道 が投稿

10月22日に行われた合同研究会に参加した木下純平さん(茶窓代表・立教大学大学院超域文化学専攻博士後期課程)が討議されたことに対して以下のような疑問を投げ掛けてくれました。非常に刺激に富む質問でありコメントであると思いますので、本人の許諾を得て以下に転載します。是非、活発な議論を展開してください。
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木下さんからの質問とコメント

昨日の発表と討論、また伊東先生のお話も拝聴でき大変有意義な時間をすごさせていただきました。

 

発表では資源の枯渇に対し、文明の転換、自立的文明などがあったかと思います。そして基本的にはアメリカや日本などすでに経済的に豊かな国々ががどのような道を歩むべきかという話に向かったかと思われます。

 

しかし、世界の人口の大半をしめる経済的にはまだ低い状態にあるユーラシアの国々やアフリカなどの国々に、そのような理想を受け入れるような余裕もない、というよりも多くがほぼ自立的な社会のまま現在にいたり、人々はこれからよくなることを夢見ています。

 

そのため、その他の世界の全ての国々や人々が認識を共有し実行に移すというのは不可能ではないか、そしてそれは歩いて越えることのできる国境を持たない日本ゆえに考えられることではないのかと思われてなりません。

 

日本の社会についてもですが、「大地」に根ざしたということもよく分かります。しかし、それも会社で働き、家のローンが30年もあるような人々に20年後に資源が枯渇するから近いうちに田舎で農家になってくれとは

とてもじゃないですがいえないかと思います。また、世界を相手にしている企業が国家間の調整も実現性もないままに舵を切ることはできないというのが現実だと思います。

 

人々の生活にとって絆や結びつきの必要性もよく分かります。そして都心部で暮らす多くの人々に失われていると思いますが、郷土との結びつきの強い持続的な社会は構築(再構築)しなければ、ならないと考えています。

 

しかし、一度郷土との結びつきが切れてしまい、それを他の土地で再構築することができるのかとなるとそれも難しいように思えてなりません。現在も様々な地域のコミュニティーや集まりなどはあると思いますが、氏子組織のように世代間を越えて次の世代やその次の世代まで受け継がれ続けるとも思えないという問題があると思います。

 

そして、いやならすぐにやめることのできるという点でも、コミュニティーですら討論でも出てきた「記号化」されたものに過ぎず、神を媒介とした強力な連帯感をもつ組織にはなり得ないのではないかと考えられます。

 

地震後の絆や連帯感についても一過性のものに過ぎないと考えられ、子の世代までは受け継がれることはないと思われます。

 

このように考えていくと、光明が見えないように思えてきてしまいますが、人間はカタストロフィー(具体的には不明ですが。。)があったとしてもその時の状況に順応し、二世代も立てば当たり前になってしまうだろうと

楽観的に考えていますが。

 

私事ですが、個々10数年で60カ国以上を個人で旅行しており、そこで暮らす庶民の人々とよく話をするのですが、いつも彼らの生活にとって一番いいことは何なのだろう、そしてその解決方法とはなんであろうかと考えさせられてなりません。

 

博士後期課程に所属しているのですが、まだまだ学識も浅く、まとまりもないのですが、もしお邪魔でなければ「環流文明研究会」にも参加させていただき、お話をいろいろとお聞かせいただきたいと思います。(10月23日)

 

木下さんの問いかけに対する染谷の返答

先進国と途上国の事情は大きく異なります。そうした違いを生んだのは、この前もちょっと触れましたが、500年前に始まった、近代文明を武器にした西洋諸国による非西洋諸国からの収奪です。それが延々と今も続いているのです。

 

私は「文明」そのものが収奪性をもった(広義の)文化と考えています。その収奪性はとくに近代文明(現代文明)において世界化し、大規模化し、激化したわけです。私の文明論はこのサイトで読めます。

 

かつて欧米諸国に収奪された途上国は現在、さまざまな援助を受け、外資を導入して経済発展を遂げており、確かに以前より豊かになっています。しかしここでも収奪が見られます。その証拠に、途上国以上に先進国はますます豊かになっているではありませんか。

 

私は「文明」は本質的に収奪性を持っていると見ます。「文明」以前の文化(かつて「未開文化」と呼ばれていた文化です)と比較すればそれは一目瞭然です。収奪性なしの文明はあり得ない。ですから収奪性は原罪といってよいでしょう。

 

「未開文化」はもう事実上存在しません。しかしアジア、アフリカ、ラテンアメリカなど、痕跡は随所に見られますね。

 

現代文明は、アメリカから始まった反格差デモが示しているように、極に達しつつあるように思います。このまま進めば、人類社会は崩壊するでしょう。

 

そのカタストロフィーを回避するには収奪性を弱める以外にないのではないかと思います。それを「環流文明」という言葉で表現しています。

 

「大地系」いう言葉が出てきました。木下さんはローンを組んで家を建てた人には無理という意見でした。その通りですね。しかしこれからの世界を考えたとき、果たして今までのような、あるいは、現行のような生き方でいいのか、という疑問があります。「大地系」という考え方がその一助になればいいと思います。

 

木下さんは世界のあちこちを歩いてきたとのこと、そうした経験を踏まえ、また実業の世界で活躍しているという経験も踏まえ、積極的に発言してくれることを歓迎します。私たちの研究会は、入るのも出るのも自由です。年齢もさまざまです。現に早稲田の学部生も入っています(現在彼はジャカルタにいます。環流文明研究会のサイトで連載している神鷲奇譚を送ってくれているのは彼です)。職業もさまざまです。共通するのは現代文明に対する危機感だけです。(10月24日)

 

 

 

第16回 比較文明・環流文明研究会報告

2011/06/16 21:47 に 染谷臣道 が投稿   [ 2011/06/20 8:58 に user Super さんが更新しました ]

第16回共同研究会は6月11日(土)午後4時から三鷹市・駅前コミセンで行われました。

濱田陽さんが「共有文明を構想する」と題して発表しました。

出席者は(敬称略)濱田、池田、星野、中山、杉本、近藤、小関、神出、染谷(の9名)でした。天候不順のためか急病で出席できなくなった方などが数名おりました。一日も早い健康回復を祈ります。

今回の発表はじつに盛り沢山で、用意された資料の半分が発表されただけですが、それでも時間が足りなかったのが、いつものことですが、残念でした。

濱田さんの今回の発表のキーワードは「ともにもつ」でした。これはますます進む「占有」を乗り越えるために掲げられるべき目標かと思います。

興味深いことは「ともにもつ」ことによって「価値が増える」という点です。

ここでいう「価値」とは物質的価値を含む総体としての「価値」ですね。諸々の価値を合わせた価値ですね。

環流文明を構築するにあたり、その方向性を示す哲学として非常に有効な提言ではないかと思います。

ただ、物質主義(モノ主義)的文明にどっぷり浸かってしまっている現代人には理解しにくい哲学でしょう。それゆえ、理解してもらうだけでも相当な時間が必要かと思います。

ただ、モノ不足(資源の枯渇やエネルギーの低減)という制約状況は目の前に迫ってきておりますので、それが深刻の度を増すにつれてこの哲学は理解されやすくなるかと思います。

あるいは、依然としてめどが立たない今回の原発事故に遭遇してはじめて原発の恐ろしさを知った、つまり痛い目にあってはじめて気がつくという事態を考えると、この哲学が理解されるのは痛い目にあってからかもしれません。

ところで、濱田さんの話を聞いていて何となく「なつかしさ」を感じていました。かつて私たちの祖先が歩んだ道ではなかったかと感じたからです。チンパンジーが茜を口にしているランガムやグドールらの研究を含むバイオミミクリーに関してコメントしましたが、チンパンジーがしていたようなことは私たちの祖先も太古の昔からつい最近まで行っていたのです。近代科学(医学)がいつの間にかそれを消し去ってしまった、余計なことをしたわけです。

かつて文明をもつ前、あるいは農耕を始める前、人類は「ともにもつ」文化を生きていたのではないでしょうか。文明主義者とくに近代文明中心主義者である私たちはそうした文明以前の文化を「未開」と呼び、「野蛮」と呼び、蔑視し、価値なしと見做してきました。

今、私たちはそうした文明主義、近代文明中心主義から自らを開放するときではないでしょうか。

近代文明はかつてのそうした「未開文化」を「自然」と同一視し、下等なものと見做してきました。その結果が大気汚染であり、海洋汚染であり、人心汚染です。

大地と海洋と大気という自然が礎です。それを下等とみなす文明に将来は任せられない。「自然の、自然による、自然のための文明」という文明が構築されることなく将来はないと思います。

濱田さんの提言は貴重なものと思います。

ここでコメントを一つ述べておきます。濱田さんは「共有」を「ともにもつ」という意味で使っています。私は「もつ」という他動詞に若干の違和感を感じています。むしろ「ともにある(いる)」という自動詞も必要ではないか、と思います。とくに他動詞より自動詞を好んで使う日本人には「ともにある(いる)」方も強調してほしいですね。

「ともにもつ」以前に「ともにある(いる)」という感覚が先行していたのではないか、私の遺伝子にはそのように書き込まれているようです(笑い)。


濱田さんの発表内容

2011/06/16 21:31 に 染谷臣道 が投稿

第16回 比較文明・環流文明研究会の発表内容は、発表者の意向で以下のものに代えます。ただし趣旨には大きな違いはないとのことです。添付ファイルをダウンロードしてご覧ください。

文明の定義について (染谷 臣道)

2011/05/17 8:28 に user Super が投稿

これまで本学会でも「文明」に関していろいろ議論されてきましたが、それにもかかわらず、コンセンサスを得るに至っていない。今でも会員のそれぞれがそれぞれの思いでこの言葉を使っているのではないでしょうか。ただ、敢えて共有している部分があるとすれば、「優れた文化」「進んだ文化」という了解でしょうか(前便で述べたように、私自身はこういう「文明」に賛成しておりませんが)。とはいえ、それも明示されているわけではありません。

 ですから「文化」と「文明」の違いもはっきりしませんでした。

 私は、「文明」とは「文化・政治・経済・社会の複合」という総合概念であるとはっきり謳ったらよいのではないかと思っています。このように定義することで「文明」と「文化」の違いを明らかにすることができます。

 ただ、文化人類学では「文化」を「生活様式の大系」というように総合的概念として定義していますので、再び、「文化」と「文明」の違いが不明確になります。そこで、このような「文化」を“広義の文化”と呼び、(「文明」の中に含まれる「文化」を“教義の文化”と呼んで区別することにしました。

 学問がますます細分化されることで、人間が行っていることの細部にまで目が届き、今まで見えなかったものが見えてきたことは確かです。しかし「木を見て森を見ない」という欠点もますます明らかになりました。そうした傾向を反省し、総合的に見る、あるいは総合的に考えることの重要性が叫ばれてきました。大学に「総合講座」とか「総合講義」などという科目が設置されたのも、慶応大学や中央大学に「総合政策学部」が誕生したのも、総合的に見ることの大事さを学生に教える必要があるとする認識からでした。そうした認識は、とかく蛸壷的になりがちな(博物学の伝統がない)日本の学界では、大事であり、その意味で総合的な「文明」概念はその要請に応えるものだと思います。

 王さんは「文明」を科学技術と精神文化から成るとしました。そうした「文明」概念も考えられますが、私は「文明」を狭くしてしまうのではないか、「勿体ない」と思います。私は、王さんが区分した科学技術と精神文化をまとめて「文化」としたらどうか、と考えます。いずれも人間の感覚能力や知的能力が広げた観念世界です。王さんがいう精神文化は具体的には宗教、芸術、文学といった、どちらかといえば感覚能力(感性)が開拓した分野を意味していると思われますが、他方、知的能力(論理性)が開拓した分野が科学技術ということになります。もちろん両者をきっぱりとわけることはできませんし、その間に相互作用があったと考える必要があります。

 前便で書いた通り、科学技術の分野は累積性があり、発展が見られます。それは20世紀後半以降、私たちの眼前で見事に観察されましたので実感できます。他方、精神文化の領域には「発展」はなじまないのではないか、「深まり」すら、なじまないのではないかと思っています。「発展」しているように見える、あるいは「深まって」いるように見えるのは技術の「発達」で可視化したからではないのか、と思います。私には人間の感覚がますます高度化しているとは思えません。皆さんはどうお考えになりますか。

 「文化」が人間の感覚能力や知的能力が切り開いた領域であるとすれば、それは、人間の身体をモデルにして考えると、頭(脳)にあたると思います。そうすると、循環器系(心臓)が政治、消化器系(胃腸)が経済、全体骨格(とくに足腰)が社会となりましょうか。

 「文明」は文化、政治、経済、社会の総合であり、そう捉えてはじめ全体を見ることができると思います。

 実は、本学会の会員の関心分野を見ると判るように、さまざまですが、共通しているのは、それぞれの分野だけでは満足できず、他の領域にも関心がある、あるいは、諸領域との関連で考えてみたいという関心の持ち主が多いようです。ですので、私の「文明」は本学会の皆さんからも賛同してもらえると思っています。

 「文明」の観点から見ると、「社会」も単に地域社会だけでなく、国家との関わり、さらに国家を越える大きな地域との関わりなど、柔軟に考察の範囲を広げたり絞ったりすることができます。しかも単に「社会」という領域だけでなく、「政治」との絡みや「経済」との絡みも自由に考えることができます。今日では「政治」も国家の範囲(国境)を越えて他国に影響を与えていますし、それに連動して「経済」が絡みます。「文化」もまた絡んできます。王さんはこの前の発表で現代中国の「文化的空白」を指摘しましたが、それは目覚ましい発展を遂げている「経済」に随伴した一つの結果でしょう(それは高度成長以降の日本でも見られた現象です)。

 とくに近年は「経済」が「政治」も「社会」も「文化」も引きずりまわしているという現象が顕著です。下部構造が上部構造を規定するのは「文明」の鉄則で、それが世界化しているのでしょう。アジアの通貨危機やアメリカの経済危機など世界の人々に大きな苦難を強いました。それらの諸事件のうらにうごめく“見えざる闇の手”が不気味です。しかもその“手”はますます強力になっております。

 王さんは、中国の歴史は文明の興隆と崩壊の繰り返しだといいました。なぜ崩壊したのか、金子さんは気候変動を理由に挙げました。私は「文明」の必然だと思っています。格差があってはじめて成立する「文明」は、言い換えれば、(人類学などでいう)「再配分(redistribution)」システムの上で成り立つということですが、このシステムが文字通りきちんと再配分されていれば問題ないのですが、これまでの諸文明を見ると、それが難しいようです。ほとんどの文明で収奪性を帯び、それが極点に達したときに崩壊が起こったのだと思います。近時ではチュニジア、エジプト、リビアがその例です。民衆の圧倒的な支持を得て権力の座に着いた権力者はいつの間には国民に背を向け、蓄財に励んだのです。その結果、民衆に追撃されることになりました。なぜ彼らは収奪に走ったのでしょうか。

 “見えざる闇の手”がそうした権力者を抱き込み、収奪に走らせたことは明らかですが、専制的に世界を動かしているその“手”の“腕力”に世界の民衆が勝てるかどうか、その専制に終止符を打ち、彼らの富を環流させることができるかどうか、それが人類の将来を決めるだろうと思います。

 そのためには、新しい「文化」が必要です。未来に向かってひたすら前進するだけという前進主義的「文化」(それは「発展」「進歩」「成長」という言葉で語られます)、この19世紀以来の「進化主義」的「文化」ではなく、環流という回転主義的「文化」に変換しなければならないのではないかと思います。「進化主義」的「文化」の権化はアメリカでしょう。アメリカは人工的に作り上げた理念国家であり、その国家統合を達成するために、常に未来を指し示さなければ集中を保てない国家ですね。その点で日本とは大違いですね。ところが、アメリカの政治「文化」が日本を含む世界の諸国家の政治「文化」に取り入れられ、世界が前進主義、発展主義、進歩主義の塊となり、互いに覇を競い合っているのが現代世界ではないかと思います。前進主義的「文明」が世界化しています。どこもかしこもギスギスするようになりました。心休まりません。この「文明」を「環流」の「文明」へと変えるのは想像を絶する大事業ですね。しかし前進主義的文明の座礁が見えてきたからにはそれ以外の道はないのではないでしょうか。

「文明」に関して (染谷 臣道)

2011/05/17 8:25 に user Super が投稿

「文明」に関しては、先日の王さんの発表のときにもコメントした通り、おそらくどの国や文化でも明確に定義されることなく使われてきたと思っています。ただ「良い文化」「優れた文化」とか「進んだ文化」という価値を付けられて使われてきたと思います。いうまでもなく西欧が西欧文化を自画自賛し、他に優越するためという政治的意図も含まれていました。その効果は絶大でした。明治維新以降、「文明開化」を旗印に突き進んできた日本はその意図にまんまとはまりました。一日も早く西欧の仲間入りを果たしたいという悲願を抱いてきました。「脱亜入欧」です。(昨日のテレビのインタビューに答えていた原発推進者の中曽根さんの発言にもそれが明白でした)。

 ここで明らかにしておきたいことは、「文明」を科学技術と精神文化から成るとみた場合(これはこの前の王さんの「文明」でもありました)、前者は前進ないし向上するものの、後者は前進とか向上という言葉と馴染まないということです。科学技術は実証性に基づき、累積性があるからです。しかし精神文化にはそれがない。文明以前の石器時代人の精神文化がどれほど深かったかは、それを実証するものがないために、「傍証」によってしか確かめられませんが、かなり深かった、むしろ文明人よりも深かったのではないかとさえ思っています。文明人の方が高い精神文化をもっているように見えるのは(記文技術やそれに基づく分析統合技術のような)科学技術によって補佐され、明示化されるからでし ょう。(ただ、科学技術についても、果たして「進歩」が馴染むのか、と疑問をもっています。たとえば、石器のなかでも最高の段階に達した細石器の製作技術には驚かされます。高度な技術をもつ現生人でさえ細石器を作れる人がいるでしょうか。もっとも、細石器の時代は1,2万年前ですので、文明人と同時代という見方もできますが)。

 現実には文明=科学技術という形で語られ、認識されてきたことは大変な不幸だったということです。私は文化なり文明は変化はするが、「進歩」はしない、あるいは「進歩」という言葉で語るのは危ないと思っています。価値を含んでしまうからです。

 西欧に自らをひきつけようとするスタンスの裏に非西欧蔑視があります。非西欧への蔑視ないし無関心。日本人には今でもそれが尾を引いています。私はインドネシアに長いこと関わってきましたが、インドネシアとりわけジャカルタにいる日本人に嫌というほどそれを感じてきました。彼らはインドネシア人を「ネシア人」と呼びます。「遅れた国」「劣った国」「遅れた民族」「劣った民族」と頭から軽蔑しているのです。それが「ネシア人」という呼び方に込められているのです。この優越意識は何もインドネシア人に対してだけではありません。全ての非西欧への意識です。

 そこに善意が加わると、「だから助けてあげなくちゃならない」という温かい思いやりの気持ちが出てきます。「発展途上」国に出向くボランティアにも見られます。善意は大いに讃美されなければなりませんが、しかしこれも要注意です。彼らの文化を理解していないし、理解しようともしていないからです。「教えてあげる」という優越意識からは学ぼうという態度は出てきません。残念なことに研究者の中にもそういう人は多いのです。とりわけ政治学者や経済学者はほとんどがそういう人です。当然ながら彼らが現地の研究者や人々に歓迎されるはずはありません。むしろ反感を持たれ、軽蔑されます。もっとも、あからさまな反感や軽蔑の態度は出さず、尊敬したふりをします。それが礼儀だと心得て いるからであり、日本人研究者がもってくる研究費にありつけるというしたたかな打算もあります。とはいえ、彼らが心の中では反感ないしh軽蔑していることを私は彼ら自身から聞いています。そのとき私はインドネシア人になっていることに気付きます。

 「文明」を「優秀な文化」と見る価値観を込めた見方は不毛だと思います。価値をめぐる永遠の論争になってしまうからです。梅棹さんは「文明の生態史観」で日本が決して劣っていないことを示そうとしました。イギリスと同じ位置に立たせました。西洋コンプレックスに悩まされていた日本人には受けました(当時は学部生だった私もその一人でした)。それほどに日本人はコンプレックスの塊でした。後にJapan as no.1などという本に浮かされたのも同根です。残念なことに、比較文明学会にも西欧文明礼讃その反対の自文化礼讃のコンプレックスの塊のような人が多いのです。だから「比較文明」に関心を寄せたのでしょう。

 私はそうした論争から距離を置きたいと思っています。不毛だからです。そして「文明」そのものの構造とその構造から必然的に出てくる功罪を考えたいのです。言うまでもなく、功罪は人間の心身から見た功罪です。その人間は動物ですから自然そのものです。そしてその自然(人間は人間自身が作り上げた文化を纏ってはじめて生きられる生き物ですから(文化の<内にある自然>すなわち<内なる自然>と呼んでいます)はいわゆる自然(私はそれを<外なる自然>と呼んでいます)がなければ生きられませんので両方の自然が健全であるかどうか、という観点から文明を見たいと思います。そうすると、古今東西の「文明」で「合格点」を付けられる文明はなかったということになります。

 前にもお話ししたように、私のいう「文明」はレヴィ=ストロースの「熱い社会」の概念を根底に置いています。彼は「熱い社会」を「文明(civilisation)」とは呼んでいません。フランス語のcivilisationにも独特のニュアンスが込められているからでしょう。彼は「熱い社会」を圧力差で作動する蒸気機関に例えました。圧力差それは人間社会では格差、命令する者と命令される者の格差に他なりません。そして自然を人間のためにあるもの、それを利用してよいものとみなす格差です。

 まず文明そのものが格差構造を持っているというところで不合格になります。しかし格差抜きで文明は成立しませんので文明そのものが不合格などといったら立つ瀬がありません。文明礼讃者の反感を買うのは当然ですが、私はそう思っています。そんな文明をなぜ人間は築き上げたのか、という疑問は当然ですが、文明を構築した人間たち(命令することができる者たち)は人間の一部であり、他の多くの人間は命令される者たちで文明を作ったわけではない。彼らは人間とはみなされず動物と見做されたのだと思います。ちょうど植民地時代、支配者のオランダ人に「お前たちは動物なんだ」と言われ続けたインドネシア人のように。文明を構築した人間にとって文明は利器ですが、そうでない人たちにとっ ては凶器ですね。(福島原発事故をめぐる東京人と福島県民の違いですね。福島県民に同情しつつも、結局は原発肯定者を知事に選んだ都民は文明を利器と考える人たちですね)。

 とはいえ、文明史はその不都合ないし罪を改めようと懸命な努力を払ってきた歴史だったと思いますが、今振り返ってみると弱い人々や自然(外なる自然)を犠牲にして取り繕ってきたのではないでしょうか。そうした弱い部分からの反逆が今、世界のあちこちに現れているのではないでしょうか。果たして取り繕いが成功するのかどうか、少なくとも今のような文明では無理ではないか、「合格」点を付けられるところまで行くにはどうしたらよいのか、それは環流しかないのではないか、というのが私の考えです。

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