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文明の定義について (染谷 臣道)

2011/05/17 8:28 に ユーザー不明 が投稿

これまで本学会でも「文明」に関していろいろ議論されてきましたが、それにもかかわらず、コンセンサスを得るに至っていない。今でも会員のそれぞれがそれぞれの思いでこの言葉を使っているのではないでしょうか。ただ、敢えて共有している部分があるとすれば、「優れた文化」「進んだ文化」という了解でしょうか(前便で述べたように、私自身はこういう「文明」に賛成しておりませんが)。とはいえ、それも明示されているわけではありません。

 ですから「文化」と「文明」の違いもはっきりしませんでした。

 私は、「文明」とは「文化・政治・経済・社会の複合」という総合概念であるとはっきり謳ったらよいのではないかと思っています。このように定義することで「文明」と「文化」の違いを明らかにすることができます。

 ただ、文化人類学では「文化」を「生活様式の大系」というように総合的概念として定義していますので、再び、「文化」と「文明」の違いが不明確になります。そこで、このような「文化」を“広義の文化”と呼び、(「文明」の中に含まれる「文化」を“教義の文化”と呼んで区別することにしました。

 学問がますます細分化されることで、人間が行っていることの細部にまで目が届き、今まで見えなかったものが見えてきたことは確かです。しかし「木を見て森を見ない」という欠点もますます明らかになりました。そうした傾向を反省し、総合的に見る、あるいは総合的に考えることの重要性が叫ばれてきました。大学に「総合講座」とか「総合講義」などという科目が設置されたのも、慶応大学や中央大学に「総合政策学部」が誕生したのも、総合的に見ることの大事さを学生に教える必要があるとする認識からでした。そうした認識は、とかく蛸壷的になりがちな(博物学の伝統がない)日本の学界では、大事であり、その意味で総合的な「文明」概念はその要請に応えるものだと思います。

 王さんは「文明」を科学技術と精神文化から成るとしました。そうした「文明」概念も考えられますが、私は「文明」を狭くしてしまうのではないか、「勿体ない」と思います。私は、王さんが区分した科学技術と精神文化をまとめて「文化」としたらどうか、と考えます。いずれも人間の感覚能力や知的能力が広げた観念世界です。王さんがいう精神文化は具体的には宗教、芸術、文学といった、どちらかといえば感覚能力(感性)が開拓した分野を意味していると思われますが、他方、知的能力(論理性)が開拓した分野が科学技術ということになります。もちろん両者をきっぱりとわけることはできませんし、その間に相互作用があったと考える必要があります。

 前便で書いた通り、科学技術の分野は累積性があり、発展が見られます。それは20世紀後半以降、私たちの眼前で見事に観察されましたので実感できます。他方、精神文化の領域には「発展」はなじまないのではないか、「深まり」すら、なじまないのではないかと思っています。「発展」しているように見える、あるいは「深まって」いるように見えるのは技術の「発達」で可視化したからではないのか、と思います。私には人間の感覚がますます高度化しているとは思えません。皆さんはどうお考えになりますか。

 「文化」が人間の感覚能力や知的能力が切り開いた領域であるとすれば、それは、人間の身体をモデルにして考えると、頭(脳)にあたると思います。そうすると、循環器系(心臓)が政治、消化器系(胃腸)が経済、全体骨格(とくに足腰)が社会となりましょうか。

 「文明」は文化、政治、経済、社会の総合であり、そう捉えてはじめ全体を見ることができると思います。

 実は、本学会の会員の関心分野を見ると判るように、さまざまですが、共通しているのは、それぞれの分野だけでは満足できず、他の領域にも関心がある、あるいは、諸領域との関連で考えてみたいという関心の持ち主が多いようです。ですので、私の「文明」は本学会の皆さんからも賛同してもらえると思っています。

 「文明」の観点から見ると、「社会」も単に地域社会だけでなく、国家との関わり、さらに国家を越える大きな地域との関わりなど、柔軟に考察の範囲を広げたり絞ったりすることができます。しかも単に「社会」という領域だけでなく、「政治」との絡みや「経済」との絡みも自由に考えることができます。今日では「政治」も国家の範囲(国境)を越えて他国に影響を与えていますし、それに連動して「経済」が絡みます。「文化」もまた絡んできます。王さんはこの前の発表で現代中国の「文化的空白」を指摘しましたが、それは目覚ましい発展を遂げている「経済」に随伴した一つの結果でしょう(それは高度成長以降の日本でも見られた現象です)。

 とくに近年は「経済」が「政治」も「社会」も「文化」も引きずりまわしているという現象が顕著です。下部構造が上部構造を規定するのは「文明」の鉄則で、それが世界化しているのでしょう。アジアの通貨危機やアメリカの経済危機など世界の人々に大きな苦難を強いました。それらの諸事件のうらにうごめく“見えざる闇の手”が不気味です。しかもその“手”はますます強力になっております。

 王さんは、中国の歴史は文明の興隆と崩壊の繰り返しだといいました。なぜ崩壊したのか、金子さんは気候変動を理由に挙げました。私は「文明」の必然だと思っています。格差があってはじめて成立する「文明」は、言い換えれば、(人類学などでいう)「再配分(redistribution)」システムの上で成り立つということですが、このシステムが文字通りきちんと再配分されていれば問題ないのですが、これまでの諸文明を見ると、それが難しいようです。ほとんどの文明で収奪性を帯び、それが極点に達したときに崩壊が起こったのだと思います。近時ではチュニジア、エジプト、リビアがその例です。民衆の圧倒的な支持を得て権力の座に着いた権力者はいつの間には国民に背を向け、蓄財に励んだのです。その結果、民衆に追撃されることになりました。なぜ彼らは収奪に走ったのでしょうか。

 “見えざる闇の手”がそうした権力者を抱き込み、収奪に走らせたことは明らかですが、専制的に世界を動かしているその“手”の“腕力”に世界の民衆が勝てるかどうか、その専制に終止符を打ち、彼らの富を環流させることができるかどうか、それが人類の将来を決めるだろうと思います。

 そのためには、新しい「文化」が必要です。未来に向かってひたすら前進するだけという前進主義的「文化」(それは「発展」「進歩」「成長」という言葉で語られます)、この19世紀以来の「進化主義」的「文化」ではなく、環流という回転主義的「文化」に変換しなければならないのではないかと思います。「進化主義」的「文化」の権化はアメリカでしょう。アメリカは人工的に作り上げた理念国家であり、その国家統合を達成するために、常に未来を指し示さなければ集中を保てない国家ですね。その点で日本とは大違いですね。ところが、アメリカの政治「文化」が日本を含む世界の諸国家の政治「文化」に取り入れられ、世界が前進主義、発展主義、進歩主義の塊となり、互いに覇を競い合っているのが現代世界ではないかと思います。前進主義的「文明」が世界化しています。どこもかしこもギスギスするようになりました。心休まりません。この「文明」を「環流」の「文明」へと変えるのは想像を絶する大事業ですね。しかし前進主義的文明の座礁が見えてきたからにはそれ以外の道はないのではないでしょうか。

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